フランスの土を最初に踏んだ支倉六右衛門
日本とフランスの最初の出会いについて、日本の歴史書ないし学校の教科書では、あまり正確な史実を伝えているとは思えません。むしろ間違ったことを伝えている場合があるのは、たいへん残念なことです。
そして、日本人とフランス人の相互理解がまだ浅いのは、基本的には人間的交流の不足によるのでしょう。
日本人とフランス人の最初の出会いは、一五八五年(天正三年)すなわち羽柴秀吉が関白になった年にまでさかのぼります。
それは、九州の三人の大名の使節とフランス王アンリ三世教皇の使節が、バチカンで会見しています。
しかし、日本人が最初にフランスの土地を踏んだのは、江戸初期の一六一五年(元和元年)、将軍秀忠の時代のことになります。
伊達政宗の家来・支倉六右衛門常長が、ローマを訪問する途中でフランスに立ち寄りました。
(中略)
六右衛門の交渉の首尾はといえば、彼はローマ法王パウロ五世とイスパニア国王フェリペ三世に謁見し、政宗からの親書と贈り物を渡して交渉しましたが、この話し合いは成功せず、残念ながら収穫もないまま帰国することとなりました。
第二の日本人とフランス人との出会いは、それから二二年後の一六三七年(寛永一四年)将軍家光の時代のことになります。
この年にフランスからやってきた牧師がまず琉球の那覇に上陸し、ついで長崎にやってきました。
ところが、日本は厳しいキリシタン禁令のさなかにあったので、たちまち捕えられて処刑されてしまったのです。
このあと、長い鎖国状態がつづいたので、東洋伝道を目的とする宣教師たちは、なかなか日本に近寄れず、約二世紀のあいだ空白の時代が流れました。
(中略)
清国のアヘン戦争(一八四○年〜四二年)が終わったあと、
世界各国の船が日本をめざしてやってくる中にあって、パリ宣教師会のフォルカード神父がフランスの貿易船に乗ってきて、二年ほど那覇に滞在しました。
彼はその後、日本における最初の法王代理となりましたが、琉球で布教の可能性がないことに失望しま病気も重なって、一八四六年、ついに日本を離れたのです。
しかし浦賀にペリーが来航したあと、パリ宣教師会は、日本とフランスおよび諸外国との関係が広まることを望んで日本と接触しようと三人の神父を琉球に派遣しました。
この三人は日本語を学び、フランス海軍や外交官が日本と条約を結ぶときには、通訳の役目をはたす任務を帯びていました。そのなかで特に活躍したメルメ・カション神父はいちはやく日本語に熟達し、ついには『仏英和辞典』の編纂にも着手しています。
(中略)
一八五八年(安政五年)、つまり安政の大獄の前年に、日仏友好条約がようやく締結され、これによりフランスと日本との関係が、急速に深まっていくことになります。
この頃になると、列強の使節が次々と日本を訪れ、これにより外国船の偉容を見せつけられた幕府は、近代兵器において日本が諸外国に劣っていることを、いやというほど思い知らされました。そこで先進国を手本にして、なんとか軍事力を増強しようと考えたのです。
たまたまフランスのロッシ公使は、幕府に献言して、優れたフランスの陸軍方式を紹介しました。ナポレオンの偉業をよく伝え聞いていた幕府は、さっそくフランスの力を借りることにし、これを公使に依頼しました。
こうしてフランスから第一次の軍事顧問団がやってくることになるのです。 それから二年間、フランスの軍人が日本の陸軍にフランス式の戦術と戦略を教育することになるのですが、まず障害になったのが言葉の問題です。
それまでポルトガル語やオランダ語などには馴染みのあった日本人も、フランス語は新しい外国語だったのです。そこで一八六五年(慶応元年)に幕府の手によって横浜に「フランス語研修所」が開設されました。
この研修所の修業期間は五カ年で、主として公家、官僚、武士の息子たちにフランス語を教え、ヨーロッパの新知識を授けようというのが目的でした。
こうして、この研修所からはやがて五〇〇人あまりの卒業生を出すことになるのです。
一方幕府は、これと平行してフランス式の海軍を創設しようとして、横須賀に一五人のフランス人技術者を招き、造船所を造っています。彼らは日本人に造船所と軍艦の造り方を教えたのです。
ここで最初に誕生した軍艦は「松島」といい、一八八五年(明治一八年)に進水しています。これは明治一五年七月の京城事変後、フランスで建造された軍艦のうちのひとつで海軍大技監ベルタン氏をフランスから招き、日本で改良したものです。