高杜 一榮の世界

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モノローグ

20200203月曜日

わたしの地域はある一定の年齢になると銭湯の料金が100円になる。この恩恵にかなり助かっている。たとえば普通料金は420円ぐらいになるが、それがたった100円であれば、かなりの金額が得になる。10年間で換算すると結構優雅な旅行にでかけられるほどになる。だからそのカード「おたっしゃカード」という名前だが、極めて大切に使っている。ところが上限があるらしく最近もう100円で入れないと判り何だかわびしい気分がしている。四月まで100円で銭湯に入れない。四月になるまで待たねばならない。というわけで今日の午後12時過ぎにうちのシャワーを浴びた。お風呂はないが、シャワーはあるので、それで我慢した。そこで考えた。そのうち稼いでシャワーだけの暮らしをお風呂に改造してみたい、と欲が出た。しかしそこでチラリと脳裏に浮かんだ景色がある。銭湯のお風呂とうちに設置するお風呂とかなりの差がある。銭湯のお風呂は大浴場なのでザワザワガヤガヤと声がするし、水の音も一人のシャワー以上に盛大に聞える。つまりいくら金があってお風呂を家の中にこさえても、銭湯のあの雰囲気と盛大な湯煙を比べれば、かなりの落差がある。銭湯の音声や水やお湯の音、家の中のお風呂で一人で入っている雰囲気は較べてもしょうがないほどの大きな差がある。つまり大勢の裸の人に囲まれている銭湯の空気とざわめきは、どんなお風呂であっても、代えがたい要素があって、肉体の疲労を拭う要素はやはり銭湯のざわめきにありそうだ。どんなに豪華なお風呂でも較べようもない重大な要素がありそうだ。わたしは今までそれを感じていなかった。一人で家のシャワーを浴びてようやく判った。銭湯のざわめきは、何にも代えがたい究極の癒しが含んでいることをようやく今判った。人生何年経過していても、初めて判る重要なこともあるらしい。
2020年02月03日 16:03