高杜 一榮の世界

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モノローグ

20190610月曜日

父の日になると思い出すのは数十年前の父の日のことだった。珍しく父から電話があり、会いたいと言うので六本木のアマンドで会った。当時父母は離婚すると言って、離婚届の用紙をそれぞれ署名し、その後別居していた。兄が離婚届がどうなったか尋ねると、母は父に渡したと述べ、父は母に渡したと述べた。そして双方、夫婦の戸籍はそのまま生涯を閉じることになった。自身が十五歳の頃で、父から電話があったのは十五年以上も経過してからだった。「会いたい」というので何故か父を不憫に思ったのかもしれない。アマンドで待つと父はガラス戸の向こうでわたしを見つけると満面の笑顔になった。父が父の日に電話をしてくるというのは、在り得ない。大体不仲の親子が会うとなればそれが父の日であれば、仕方がない。アマンドのガラスのドアの向こうに、いつも無愛想な父が笑顔になっていたことが、この上なく仰天するほど珍事だった。よほどわたしに会いたかったのか、それとも何か特別な理由があるのか。なにしろ父は働かない三人の息子を育てていたから相当経済的に大変だった筈。父は挿絵画家として戦前戦後かなり有名だったが、その頃は仕事を取るために出版社を回って挿絵の仕事を探していたという。わたしは「父の日なので何か買いたかったけど何を選んだか全く判らなかったので」と金の入った封筒をテーブルに置いた。父は絵顔でそれを受け取り、封筒を胸のポケットに滑り込ませた。その後わたしの顔をじっと眺めている父は何も大した話もしなかったので、自然に母のことを打ち明けた。母と喧嘩したことを話すと「おかあさんのことをそんなにいうものじゃないよ」と述べ母の肩を持った。同調してくれると思ったが離婚した母の味方につくとは思わなかったので内心びっくりした。父がわたしの顔を見て笑顔だったのは、母に似た顔をしていることに気付いたのだと思う。父が亡くなったのはそれから十年後だったが、父の葬式が終わって家に帰り、一人座っていると、涙がこぼれ、泣くことの少なかったわたしがその日から一週間毎日泣いていた。夫は海外出張だったので、誰も父の葬儀の後泣いたわたしを知る人はいなかった。母の葬儀にも泣かなかったわたしが、一週間泣き通した。あの時袋に入れた一万円札を二枚にすればよかったと今では思っている。父と母のことはそれから数十年経過してからようやく判った。結婚と夫婦というものを良く理解できたのは50代過ぎてからだった。父のことで思い出すことがあった。母が離婚してからわたしが母の元に同居するべく住み込んだのだが、最初は母は父に養育費を貰えなかったため、わたしに「お父さんのところで米を貰って来なさい」と命じた。内心ショックだったが仕方なく父の家に行った。誰もいなかったが、米櫃を開け、風呂敷に米を入れている時、玄関で音がした。気が付くと父が立っていた。父はわたしが米を取りに来たことを判ったらしく黙っていた。戸を閉め帰る道で電車の線路が見えた。何故か悲しくて不愉快で電車が来たら飛び込もうと思っていた。それほど米を父の家から盗んだような恥ずべき行為が嫌だった。その時母を憎んだが父を憎むことはなかった。
2019年06月10日 14:45