高杜 一榮の世界

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モノローグ

20191118月曜日

どういうわけか十九ぐらいからマニアになったらしい。当時隣の建物に4歳か5歳程度のアメリカ人の女の子が父親がパイロットの家族が住んでいた。その当時英語もわからないのにその女の子と付き合うっていた。毎朝雨戸を叩き、「アケテヨー」とたどたどしい日本語で叫ぶ。すると当時高校生の兄が開けてくれると、女の子はパーっとわたしの布団の中に潜り込んでくる。キャッキャッと笑いながら戯れて二人で外に行き庭で遊ぶ。今はない六本木に家があったころの出来事だ。彼女の名はジミリュウという。金髪の可愛い幼児である。わたしは三つほど上だったと思う。ジミリュウとの付き合いで外国語に興味が出て、それ以来新しい外国語を習いたいという夢を抱いた。その癖が未だに残っていて、テレビを見ていると韓国ドラマを見て字幕の意味と発音を耳で聞くという習慣がついている。びょーきともいうべきもので、以後ドイツ語で一から百まで数えるというお湯につかっているいるとドイツ語で数を数え「アイン、ツバイ、ドライ」と胸のうちで呟き自身を満足させる。たまに韓国のドラマを

テレビでみて、韓国語にテレビを切り替えて、ただ聞いている。

幼い時のジミリュウとの思い出の影響かもしれない。そのうちアラビア語かまたは北欧の国のスエーデンやアジアのインドネシア語まで手を伸ばそうという気があるから

ビョーキかも。

2019年11月18日 09:37

20190331日曜日

最近気になっているのが、人間の脳はAIに勝つか負けるのか?という話題。正直言えば何故か永遠の謎を追っているような趣。勝負は勝つか負けるかだが、機械類に勝ったとしてもそれは満足できるのか?相手が勝負を理解して、敵愾心を抱き勝負魂逞しく迫ってくるのであれば、勝負ともいえるが、そうではなく勝っても万歳を言わず(もちろんAIに設定しておけば良いが)微動もせず喜ばない相手に勝ったとしてもそれほど満足は得られない筈。人間の脳はAIに負けるが相手は勝ったことを喜ばず、冷静沈着どころか、勝負がなんだという風に顔色ひとつ変えない。そのような特質のある「物体」に勝負を挑むという愚鈍なことを人間が恥じるのは見えている。人間はだからAIに勝つかと疑問を抱く点がある。その点だけでAIより劣っていると言える。それとも負けたらすこぶる悔しがる設定をAIに仕込んでおく?
 
2019年03月31日 08:39

20190329金曜日

久しぶりにモノローグのエッセイを書く。これまで自分の家の屋根の修理や師匠の葬儀などで多忙。すこぶる長い間、時間がなかった。ところで師匠は作家を育てる神様という噂があった。テレビでも有名な西村京太郎氏のデビューを担当したという名物的な存在であった師匠は脳梗塞など複数の病気で入院し、他界。自身は当面ショック状態から立ち上がれないような有様。というか頭を鋭い刃物で輪切りされたような具合。これからどうするのか?今日何を食べるのか?どう生きて行くのか?全く脳が動き出さない。あたかも宇宙に脳の機能を飛ばされたかのようだ。宇宙に飛ばされた脳ミソを取り戻しにいかねばならない。救いになっているのは、わたしにはナツキという猫がいること。一緒に暮らすようになって半年ほど経つ。この猫があまりにも懐くのが速かったので、ナツキと名付けた。二日間続けて遊びに来た彼女(わたしと同じメスです)にご馳走をしてあげたら、三日目に「わたしここで暮らします」とでもいうかのように、わたしの布団の上で眠った。彼女は今ではわたしの家族です。ナツキはわたしと共に眠り、わたしと共に起きる。ただし睡眠時間は彼女のほうが長い。眠っている彼女を見るとあまりに可愛いので、むっくり起きた時に「一緒に死のうね」と囁いたことがある。その時彼女の眼は冷たかった。その後外に出て行った。危険を感じたのかも知れない。ともあれ彼女がわたしの理性を管理している。素晴らしい能力のある猫だ。
2019年03月29日 19:46

20191116日曜日


モノローグ
20191116
某病院で手術を受け、退院して今日で三か月少々経過した。病後の調子は極めて快調。担当医の先生が「転移していないので、安心」とのことで、この先転移する様子はない、とのご託宣だった。というわけで自身の暮らしに戻った。中でも心配していたのは猫のナツキ。名前の由来はフラフラと迷い込んできた名も知らぬホームレスの猫に食事を与えたら、三回目に「ここで暮らします」と彼女(わたしと同性のメスです)オスの猫が来たら「オッス」と挨拶し同様に可愛がったはずだが、幸い彼女は「メス」なので、挨拶はしなかった。だが来てから中々わたしに慣れるのが、早くあまりにも懐くことが早かったので「懐き」つまり「ナツキ」と命名したのだ。彼女はわたしとの暮らしでほとんどニンゲンと一緒に暮らしているような気になるほど、人間味がでてきちゃった。例えばお腹すいてないかと食事(エサと言わないことにした)を与えると、美味しかった時は、わたしのそばに、ほっぺたに彼女のヒゲが触るぐらい接近して、「猫らしいチュー」をしてくれる。それが素晴らしくニンゲンに近い感情があるのではないか、と思えた。つまり「ゴチソウサマ」を体で表す猫です。そういえば猫って、「恥ずかしい」という感情もあるらしい。猫を観察していると解る時がある!

 
2019年11月16日 10:40

20190319火曜日

最近自分の子供を「教育」または「躾け」と称して暴力を揮う親が多くなっている。これは恐らく戦争体験などがない世代の特徴とも言え、対応として最適な方法もないようだ。自分の子供を教育する智恵も常識も知性も全く育んでいないために出て来た新しい迷える世代といえる。わたし自身は子をつくる気も全くなかったために人に説教は出来ないが、長い間生きてきたことで得た情報で推測し発言できるとすれば、まず子供を作ったことを悔いてもしょうがないので、必死になり自らできる限りの智恵と工夫で、独特で自身に適した親としての「躾」を編み出す必要があると言いたい。「子供を産まなければ良かった」と言う前に、その子供を「自分には素晴らしい父がいる」「自分には本当に良い母だった」と子供から思って貰えるべく、誰にもできない素晴らしい家庭教育をあなたの最愛の子に施して欲しい。その行いが、数十年後に思いもよらない奇跡に化けて戻って来る可能性がある。わたしは常にムスッとしていた父と常に明るい母の間に生まれ。それなりに普通に育った。たがこのある意味不完全な二人が生きていたお陰で、得られたものは眼に見えないものであったが、明らかにわたしの人生を明るく生き生きさせ、自身を今でも煌かせてくれていると思う。
 
 
2019年03月19日 08:32

20190610月曜日

父の日の時期になると思い出すのは数十年前の父の日のことだった。珍しく父から電話があり、会いたいと言うので六本木のアマンドで会った。当時父母は離婚すると言って、離婚届の用紙をそれぞれ署名し、その後別居していた。兄が離婚届がどうなったか尋ねると、母は父に渡したと述べ、父は母に渡したと述べた。そして双方、夫婦の籍はそのまま生涯を閉じることになった。自身が十五歳の頃で、父から電話があったのは十年以上も経過してからだった。父母の離婚にはあまり賛意を示していなかった。とはいえ、父のことはそれほど好きな親ではなかったので、電話にはびっくりした。「会いたい」というので何故か父を不憫に思ったのかもしれない。アマンドで待つと父はガラス戸の向こうでわたしを見つけると満面の笑顔になった。父が父の日に電話をしてくるというのは、在り得ないことなので、会うことにした。大体不仲の親子が会うとなればそれが父の日であれば、ありえることなのだが、アマンドのガラスのドアの向こうに、あの無愛想な父が笑顔になっていたことが、この上なく仰天するほど珍事だった。よほどわたしに会いたかったのか、それとも何か特別な理由があるのか。なにしろ父は三人の息子を育てていたから相当経済的に大変だった筈だ。彼は挿絵画家としてかなり有名だったが、この種の世界にはかなり景気が左右した。父は仕事を取るために出版社を回って挿絵の仕事を探していたと兄から聞いた。わたしは「父の日なので何か買いたかったけど何を選んだか全く判らなかったので」と金の入った封筒をテーブルに置いた。父は絵顔でそれを受け取り、封筒を胸のポケットに滑り込ませた。わたしの顔をじっと眺めている父は何も大した話もしなかったので、自然に母のことを打ち明けた。母と喧嘩したことを話すと「おかあさんのことをそんなにいうものじゃないよ」と述べ母の肩を持った。同調してくれると思ったが離婚した母の味方につくとは思わなかったので内心びっくりした。父が亡くなったのはそれから十年後だったが、お葬式が終わって家に帰り、一人座っていると、涙がこぼれ、泣くことの少なかったわたしがその日から一週間毎日泣いていた。夫は海外出張だったので、誰も父の葬儀の後泣いたわたしを知る人はいなかった。あの時袋に入れた一万円札を二枚にすればよかったと今では思っている。
 
2019年06月10日 14:40

20190303日曜日

 平成から新しい年号に変るのだが、その際の年号に関する自身からの助言を披露したい。名前は非常に大切である。明治は明が8画、治が9画、総合して17画。この画数は人間でいえば、人間関係で苦労する数字。そして昭和も同様、17画である。昭が9画和が8画である。明治も昭和もいろいろと苦労のあった時代だ。そして平成。平が5画、成が6画で11画。これは姓名判断では最高の画数。自身が新しい年号として勧めたいのは「光生」という年号だ。光が6画。生は5画で11画。これであれば日本国民が安らかに無事に日本国民として暮らせるという画数になるか、と思う。光が生まれるという年号をお勧めする。(姓名判断の参考文献としてナツメ社の運勢を開く「姓名判断」(文屋圭雲著)を参考にしました。)
2019年03月03日 13:34

20190225月曜日

天皇陛下ご在位30年式典の際の陛下のお言葉の一部を畏れながら引用させていただく。「これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき努めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした」との陛下のお言葉に深い思いを感じました。その民度は陛下がご在位なさっていたお陰で生まれ得た民度であることを国民一同理解しておると思います。皇室のある日本国は他国とは民度が大幅に異なることを多くの若き国民に理解されるべきです。
 
2019年02月25日 16:31

20190218月曜日

最近コンビニやレストランの従業員たちの「悪ふざけ動画」が頻繁にテレビで流されている。自己顕示欲、目立ちたいため必死に画像をデッチあげたらしく、どれもインパクトも魅力もない。「ただ悪さをして目立ちたかっただけ」の画像をアップしただけのようだ。才能がなく、特徴もアイデアも貧しく「ただちょっと目立って騒がれたいだけ」だが、それで満足しているらしい。レストランの従業員らしい男が調理器具を身体の一部に当てたり、ほとんど酔狂な動画だが、それが店の信用に傷をつけることになるのを推測出来なかったらしい。世間を騒がせることになるとは、思っていなかったようだ。若者たちが何か自己主張したり、目立とうとしたりするのは、時間を持て余し、何かでとにかく目立ちたかっただけ。この事件で企業側は犯罪として扱い、警察沙汰になる道筋が成り立ったようだ。従業員は解雇だが、いったん事件を起こし、迷惑を八方ばらまいて自分だけ助かると思っていたのだろうか?その上解雇された後に待ち受ける世間の白い目や非難を想像できなかったのか?アルバイトだから許されるわけではなく、企業側はきちんとした手続きを取っているようであるから良いが、無知で能力のない者の犯した愚かな行為はこれからも出て来る筈だ。再教育と言う提案もあるが、大体その種の犯罪を犯す者は元々無知で、知識が欠如しているためにどの程度教育しても無駄かも知れない。罰が下るかさえ、想像できていなかったのだろう。今回の事件がテレビで報道されたので、愚かな者の出番は減少するだろうか。何故そういう類の事件が後を絶たないのか?一番良い薬は、愚かなことを動画として流しても拡散させず、テレビ側も無視することではないのか?ともあれマスコミは若者たちに対する教育も任されていることを熟知するべきではないか?また犯罪としてきちんと罰を与えるのも教育だ。しかし酒を呑んで余興に卑猥な場面を展開する大人たちを見慣れていた若者たちは、こんなのは誰でもやっている、と思った可能性もある。中年の呑んだくれた大人たちのだらしがない姿を見慣れていた若者たちは、自分たちが一体何の罪を犯したのか?と首を傾げているかもしれない。大人と若者の間に誤解があるのかも知れない。調理器具をどう使おうか自由だが、暇でおかしな行動をする若者をもっと更生させなければならない。日本人の質が悪くなってきたと思うようになったら、富士山が鳴く。鳴くよりも号泣するだろう。富士山が号泣しないように皆真面目に生きよう!

2019年02月18日 10:41

20190213 水曜日

どういうわけか、大きな運気を持っている人はその運気と同じ程度の災厄に見舞われるようだ。例としては坂本九氏、世界に認められたその歌「上を向いて歩こう」のために空の便を使用したのかどうか知らないが、彼とマネージャーの乗った便は墜落し、全員が帰らぬ人となった。あれほどの運気を持った人が、急転直下不幸な人になってしまった。気の毒ともいえるが、何か運気には誰にも理解できない厳正なルールでもあるのだろうか?そういえば最初にパリに向かう空の便に搭乗した際に、恐ろしいほど機体が上下した。その上副機長かまたはその便の中の男性の乗務員であったのか、通りかかった際に真っ青な顔をしていた。そしてわたしはその顔を見て「この便は落ちるのかも」と戦いた。成田からソウルまで揺れに揺れた。ソウルでパリ行きの便に乗り換えた。ソウルまで揺れに揺れたので、機内で遺書を書いていた。「自分が死んだら苦しまないで死んだと思ってください」など妙な遺書をしたためた。無事空港に着いた時はナント無駄な心配をしたものだ、と自分に呆れていた。あれから三十年も経過している。飛行機に乗らなくなっているが、また出かけたい。特に行きたいのは有名な画家のゴーギャンが住んでいたタヒチに行きたい。タヒチのHPを観たら、ゴーギャンがタヒチに行って絵を描いてから、次第に認められ、パリに帰って又認められ、紆余曲折を経て、またタヒチに戻ったとかいろいろと載っていた。ゴーギャンの住んだところや遺された絵画を見たい、と思う。その上、タヒチで絵を描いて個展を現地で開くという叶わぬ夢を描き始めた。夢は金が掛からないし、誰にも迷惑はかけないと思うが・・・。

 

2019年02月13日 20:58