高杜 一榮の世界

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モノローグ

20191127水曜日

最近困っていることを書く。友人にノート型パソコンが壊れてしまった、と打ち明けたら「じゃ新しいノート型パソコンを持ってゆくから、と言われ喜んで待っていた。そしてついにそれは来た。それも濃厚な深紅の派手なカラーでしかも、その深紅の上にキーボードが黒。激しいほど情熱的なノート型パソコンなのだ。それで喜んでいたのだが、扱っているとわたしと同じ性格なのか、天邪鬼で人のいうことにまったく耳を貸さず、激しく自分勝手に動き出すのはほとんど変人に近い。大抵のパソコンはそれなりにこちらの意志を瞬時に察して、さっと自分の思ったままに使える。だがこの深紅の女王様は、いつも背を伸ばし「あーっ!そっちいったらいかん!いかんと言っているでしょ」というように自身の命じたままに動かない。わたしはその都度、一切の操作も辞め、さっと電源をきるために、パソコンから離れる。彼女の恐ろしい命令から逃れるにはそれしかないからだ。それでほとぼりも冷めたころまたぞろ同じことを繰り返す。なにしろ右も左もわからないので、あちこち駆けずり回って、大体どこに何があるかわからないと話にならないから、向こうが女王様なら、こちらは昔あんみつ姫で現在は老齢のあんみつババ。だから相手が「ガーガー」と勝手にやりだすと、ガツンと殴る感じでしかるべきところを押し、自分の砦に帰る。だから仕事がうまく進まない。女王様が疲れ切って勝手にやれば、と諦めるまでバトルを続けるつもり。しかし最近のパソコンはなぜか進歩しすぎて使いにくいこと夥しい。それにこの深紅の女王様はなかなか優秀らしいが、なにしろ性格が頑固で、激しく、命令口調で、時々「好きにしたら!」と怒鳴る。するとわたしは、好き勝手にやって、ようやく自身のCGやら、文章やらを入れることができた。ただまだまだ彼女の全貌を分かっていないので、またバトルがたくさんありそう。しかしこんなに性格が激しくなおかつ素直ではなく、根性が凄いノート型パソコン会ったことがない。しかし昔のパソコンよりも遥かに刺激が強く、まるで登山でもしているような気にさせてくれるので、それを思えば家にいて電車賃払わないで登山ができて、幸せというものだろう。どうやらわたしの人生の相棒になりそうだ。ただまだまだたくさんのバトルがありそうだ。そのうちパソコン相手に銃の打ち合いなどがないように願いたい。令和のノート型パソコンは情熱的ではっきりいえば野生的といえる。機械もニンゲンもさほど変わりないらしく、結構性格があるらしい。転んだらただでは起きないのは人間もパソコンも同じようだ。
2019年11月27日 21:30

20191212 木曜日

今朝新聞を見ていたら、農水省のお役人の父親が子を殺害した事件が載っていた。それを読んだら、思わず「わたしは良い選択をした。こうならなくて良かった」と呟いていた。というのもわたしは成人してから父母の仲の悪さにほとほと呆れて、そのため自身が結婚しても絶対子を作らない、と決めていた。理由は父母のように子の前で壮烈な喧嘩をして子の心を傷つけるかもしれない。なおかつ子供を叱りつけ、このお役人のように殺害に走ることは否定できない。もし子を産んでいたらこのお役人のように子を殺してしまう可能性はゼロではない。それほどカッとなり易いに違いない。自身の選択で幸いなことに、わたしに殺される「運命の子」はそういう事情で生まれて来れなかった。わたしは生まれる予定になるかもしれない未来の子に「ごめんなさいね、あなたを生むことを放棄して」と謝罪した。子を親が殺す事件のある度に「生んでいたら殺していたかも」と思うことは長い人生結構あった。というのもわたしの友人も子を殺しかけた、と聞いたことがあった。事件が起きる度にそう思うので推測は確かかも知れない。ともあれ父母は仲は悪かったが、仲が良い時はないことはなかった。しかし彼らは離婚した。とはいえ法的には籍は変わらず母は婚家の姓のまま亡くなった。母がわたしに尋ねたことがあった。「何故子供を作らないの?」わたしはこう答えた。「離婚してしまう可能性があるから、子をつくっていたらその子が可哀想だから」母はわたしのその言葉にめげずに言った。「親の気持ちを味わうことがないなんて狡い」この言葉を思い出すと母は自分の離婚で孫を持てなかったことを後悔していたかも。四人の子があったのに、孫は約一名のみ。だがある時は母言った。「四人の子を集めてガソリンかけて焼いてしまいたい」それを聞いて配偶者を極めて嫌っていると思えた。母の中に何があったのか、良く判らない。
 
2019年12月12日 09:52

20191123土曜日

実を言えば今年の七月に入院し、手術した。病名はこのエッセイの最後に書く。七月十九日に入院し、手術を二十二日にし、七月末日に退院した。この病気のことだが、わたしが三十年も抱えていた病気だった。最初に三十代でその病気を宣言されたが、医師に「手術しますか?」と言われたとき「いえ、しません」と答えたのだ。医師は「よろしいですよ。あなたの自由ですから」と述べた。というわけで今回何故そんなに手術を遅らせたのか?その原因になったわたしの性格について説明したい。わたしは生来かなりな剛毅な性質らしい。というのもこの「モノローグ」どこかに書いたとは思うが、再度書くことにする。二十代後半に「バセード氏病」に掛かり、その際女医の先生が白い錠剤をわたしに示し、こう言い放った。「あなたは甲状腺ホルモン亢進症です。この薬を一生飲み続けないと死にます」と宣言した。大体剛毅でなおかつ天邪鬼の傾向のあるわたしがその言葉にビビッて怖がると思ったのか、医師は宣言して絶対従うと読んでいたらしい。「飲まないとあなたは死にます」と宣言されたのが、よほど頭に来たようである。わたしには命令は効果ない。わたしはニコリともせずクリニック(その種の病気の専門の病院)を出て家に帰り、夫にも何も話さず母にも何も言わず、毎日プールへでかけ、水の中で歩いたり、泳いだりしていた。それ以前は階段昇るのも汗がびっしょりかいて、心臓もドキドキしたりしたのだが、プール療法が良かったのか、汗もかかず、心臓もドキドキしなくなった。つまり完治したということになる。わたしは病魔と医師の宣言に「勝った!」と思えた。それ以来というより、むしろ生来剛毅で自分の意志を露骨に表しながら暮らしていたので、そのまま続行。それでさっきの話つまり今年の七月の入院について述べる。わたしは乳がんだったとしても手術をしない選択をしようとしていた。三回先生が「手術しましょう」というのを三回とも断った。だが四回目は自ら医師に会い「先生お願いします」と頭を下げた。三十代で医師に背を向けたわたしが老齢となって気弱になっていたからなのか、自ら進んで選択したのだった。今の気持ち?本音をいえば「もう年も年だから、長くないだろうし手術しないでもよかったかな?」と嘯いている。四回目に自らお願いに行ったのは、わたしの「そこ」が自己主張し「あなたわたしを虐める気?」と叫んでいたためだったといえる。この手術のエピソードは続きがある。四回目に先生にお願いします、と述べた際に医師の三十歳半ばの先生は「そうですか、解りました」と笑顔で述べ、その際こう言い放った。「嬉しいです」医師に手術をお願いして「嬉しいです」と言われたのは初めてだったし、滅多に医師という人種は患者に「嬉しいです」と言うことはまれだと思う。その「嬉しいです」が自身も嬉しくて手術が失敗して死ぬようなことがあっても後悔しない、と心の底で思っていたらしい。その後そう思ったことを後悔した。何故ならかなり芸術的な抽象絵画のような傷口を鏡でみるたびに「もっと別な切り方もあっただろうに!」と思うようになった。つまり鏡を見なけれ良いのだけど。
2019年11月23日 15:11

20191122金曜日

猫を飼い始めて約一年ちょっと。とにかく猫のナツキはまるで人間のように振る舞う。我々がどういう出逢いだったか、を書く。最初家の前のブロックの塀の上に見知らぬ猫がきていた。白と薄茶色の猫だが、わたしは前にも猫を飼っていたのでその猫にうちにあった煮干しや何かをあげたのかもしれない。すると次の日もまた来て、私が出すものを食べた。三回目には「ここでお世話になります」と挨拶するようにわたしの腕の中に飛び込んできた。それからずっと同棲している。最初のころから懐いてしまったので、名前は「ナツキ」にしたのだ。あれから二年以上一緒に暮らしているような気がする。彼女が朝出て帰らない時もあり、いつ帰るのか、どうしたんだろう?とまるで娘か息子を案じるような具合の暮らし。ナツキがいるのは当然と考えていたのだが、ある日暑い日が続いたら、水は飲まない。ペットフードも食べなくなり、心配になった。夏だから、人間のように熱中症になってしまうかもしれない。なにしろ心配なので近くの獣医クリニックに電話で相談したら、連れてきてほしいという。自身は猫のカゴを持つことができないので、人に頼んでハナペチャクリニックに行った。かなりの人が待合室で待っていた。一時間経過して呼ばれて「今日は点滴しておきます」と言われようやく帰ることができた。点滴のせいか、元気で水を飲み、ペットフードも食べた。今そばで眠っている。彼女はわたしが夜布団に寝ると、そばにきて顔の近くまでくる。それで布団を開けて中に入るようにうながしたら、おとなしく布団の中に入ってわたしと一緒に寝た。こうしてナツキはわたしの娘みたいな感じになった。友人にメスか、オスか判らないと言ったら調べてくれて「この子はメスだ」と宣言してくれた。というわけでナツキはわたしの娘です。死に水をとってくれるようにささやいている。彼女が返事したか?「シニミズ?」と両目を大きくした。まるで意味を知っているかのようだった。
2019年11月22日 14:07

20191120水曜日

驚くべきことに最近古い昔のことを鮮明に思い出すという「事件」が起きた。ある日原稿を書こうとノート型パソコンを開いて、そういえば亡くなった夫の森田は、かなり変人だったと、鮮明に思い出した。それも新婚旅行の出来事!。あの当時、わたしたちは付き合って一か月で結婚を決意したというので、周囲は仰天したようだった。その新婚旅行で今でも思い出すのは夫の言葉だった。「お前は何も知らない。男性とのことはお前自身で経験して覚えなくてはいけない」そういう恐ろしいことを告げた。まだ男性と付き合ったことが少なくそれほど経験がないのをそういう言葉で宣言されて、わたしは茫然としたというよりも何を言われているのかが判らずキョトンとしていた。今であれば怒り狂って「キチガイ、新妻をそこらの男性にまるで使い捨てにみたいに投げて捨てるつもりか!」と怒鳴れるが、あの当時はそれをいえるような根性もなければ、度胸もないし、なおかつ彼を好きだったから黙って俯いていた。その後まもなくわたしはお台場のお濠のそばで、しくしくと泣いていた。なぜ泣いていたのか思い出さないが、多分新婚であるというのに、まるで三十年一緒に同棲しているカップルのようなそれも心のない残酷な発言を夫がするので、それが原因で泣いていたのだと思う。どういうわけか、過去のことが思い出され、あの時何故亡夫が新婚旅行の時に非常に理不尽なことを言ったのか、その後の展開を思い出すと理解できない。大抵の夫は新婚時代には「ほかの男と寝て来い」とは言わない筈だ。今でもなぜ彼があの残酷な言葉を吐いたのか理解できていない。その後三十年ほど経過した際に、夫は「お前は節度がない」と述べた。新婚時代に「ほかの男と寝て来い」と言った夫が後に「節度がない」と言ったのだが、その言葉こそ彼のエゴイストぶりを表しているといえる。今なら「節度がない」と述べた夫に「あんたが節度をなくさせたんじゃないんですか!」と激しく怒ることができるのだが、生憎相手はこの世にいない。今でも思い出す。会社の彼の事務所に行ったとき、彼の部下を連れてきて「妻と遊んでもよい」と述べたらしいが、何も知らなかった私はなぜ目の前に彼の部下が座っていたのか全く分からなかった。今ならあの時の怒りをぶつけられる、と思うわたしも蛍光灯すぎるが実際お互いに風変わりな夫婦だったとしか言えない。理不尽な言葉に全く怒らなかった自分をいまなら怒れる。
2019年11月20日 13:38

20191209火曜日

人生で悩むことは多い。だが悩みがまったくないに等しいがいつも悩んでいる状態が継続する。理由は不明。人間のそれは本来持っている性(サガ)らしい。若いころ、今よりももっと悩みがなかったはずなのに悩んでいる時期が多かった。それもかなり小規模なことで悩んでいた。例えばあまり書きたくもない話だが、離婚した母が別れた夫に対して不愉快な心境にいたためか、わたしにある日宣言した。「お父さんのところからお米を持ってきなさい」実は父母は離婚するために、六本木の土地つきの家を売ることにし、売った額を半分にして別け希望通りに離婚した。つまり土地が売れたから別れることができた。父母は四人の子供をいかに二人で別けるか考えたのかもしれないが、息子三人は父が扶養し、娘は母が扶養すると決まった。つまり父は娘の扶養はあまりしたくなかったらしい。一度は兄たちと父と一緒に暮らしたがわたしにとっては、母のいない家庭は居心地が悪かった。それで毎日母の住む豊島区の家に出かけ、学校のカバンを置き、寝泊まりした。学校と父の家と母の家と交互に通っていた。そのため嫌われたと思った父は、娘の養育は母に任せると宣言したらしい。母親は養育費をもらっていないから、悩んでいたらしい。ある日母はわたしに言った。「お父さんのところからお米をもらってきなさい」父の家なら兄たちがいるのでお米はたくさんあるだろう、と踏んでいたのかもしれない。聞いた途端嫌な気分がした。父の家に米をもらいにゆくなど青天の霹靂どころか、搔き曇った天が裂けて火の玉が落ちてくるような気分がした。わたしは重い気分で西武線の電車に乗り、豊島園に向かった。着くと長兄も次兄もいなかった。台所に入り、米櫃を探した。ある場所は分かっていたので、アルミの米櫃の蓋を取り、米を手で握り、持って行った風呂敷に入れた。米が風呂敷に落ちる音が聞こえた。突然玄関に音がした。誰もいないと思っていたが、誰か帰ってきたらしい。わたしは見られるのを憚り、立ち上がろうした瞬間父の姿が見えた。父は米櫃を見て理解したらしく、眼前からすぐ消えた。風呂敷を縛り、駅まで歩いた。西武線の電車に乗った時、人生で一番いやな気分を苦々しく味わっていた。不思議と父に怒りはなく、米を取りに行かせた母を呪っていた。その後母を好きだったわたしは、父のことはそれほど悪く思わなくなり、結婚というものを深く理解できるようになって行った。

 

2019年12月10日 15:19

20191118月曜日

 

どういうわけか小学生ぐらいで語学マニアの基になる環境にいたらしい。当時隣の建物に4歳か5歳程度のアメリカ人の女の子で、父親がパイロットの家族が住んでいた。その当時英語もわからないのにその女の子と付き合っていた。毎朝雨戸を叩き、「アケテヨー」とたどたどしい日本語で彼女は叫ぶ。彼女の名はジミリュウという。当時高校生くらいだった兄が雨戸を開けてくれると、女の子はパーっとわたしの布団の中に潜り込んでくる。キャッキャッと笑いながら戯れて二人で外に行き庭で遊ぶ。今はないが六本木に家があったころの出来事だ。ジミリュウは金髪で可愛い幼児である。わたしは三つほど上だったと思う。ジミリュウとの付き合いで外国語に興味が出て、それ以来新しい外国語を習いたいという夢を抱いた。その癖が未だに残っていて、テレビを見ていると韓国ドラマを見て字幕の意味と発音を耳で聞くという習慣がついている。びょーきともいうべきもので、以後ドイツ語で一から百まで数える習慣ができ、お湯につかっているい時はかならず熱いお湯の中でドイツ語で数を数えていた。「アイン、ツバイ、ドライ」と百まで数える。たまに韓国のドラマをテレビでみて、音声を韓国語にテレビを切り替えて、ただ聞いているだけだが、それが楽しい。幼い時のジミリュウとの思い出の影響かもしれない。そのうちアラビア語かまたは北欧の国のスエーデンやアジアのインドネシア語まで手を伸ばそうという気があるからビョーキかも。ジミリュウはある日突然いなくなった。どうやら仲良くなったわたしとジミリュウの仲を心配した彼女の父母が黙って日本を発つことにしたようだ。おそらくアメリカのどこかに生きているはずのジミリュウに会いたい。

 
2019年11月18日 09:40

20191117日曜日

今朝ドジをした。新しいパソコンで仕事をし出してから約五日程度。そのため慣れるのが大変で、操作に慣れてきたら恐ろしい出来事に見舞われた。というのも以前日本語と仏語の両方を打てるパソコンを使っていたためその機能を今度のパソコンでやってみたら、すぐ仏語の文が書けるようになった。調子にのって仏語を出していたのだが、いざ削除して次にゆこうとしてもどうしてもうまくいかない。その上恐ろしいことに仏語の記号のついた文字が別な操作にも波及して、何度直しても日本語が素直に出てこなくなった。仏語のキーボードはAとQが逆になっていて、いつもの調子で打つと妙な感じになる。同じパソコンでも二か所に別けて一方を日本語、他方を仏語に別けていた方法がわからず、結局パソコンのキーボードまで仏語が抜けず、泡食ってしまった。それで仕方なくやっと仏語の文字が出ないようにするべく必死になって操作し、仏語を一旦削除し、先ほど元に戻った。最初から設定をしてから仏語を導入すればよかったのに、慣れているつもりでやったら、キーボードがやたら使い勝手が悪くなった。 あまりにも使い勝手が悪いので仏語の設定をする機能を調べてからにすることにした。朝からハプニングで、丸一日分疲れた。
2019年11月17日 09:58

20191205 木曜日

2019年12月05日 18:34

20191116日曜日

20191116

某病院で手術を受け、退院して今日で三か月少々経過した。病後の調子は極めて快調。担当医の先生が「転移していないので、安心」とのことで、この先転移する様子はない、とのご託宣と信じることにしたのだった。というわけで自身の暮らしに戻った。中でも心配していたのは猫のナツキ。名前の由来はフラフラと迷い込んできた名も知らぬホームレスの猫に食事を与えたら、三回目に「ここで暮らします」と彼女は宣言したらしい。(わたしと同性のメスです)オスの猫が来たら「オッス」と挨拶し同様に可愛がったはずだが、幸い彼女は「メス」なので、挨拶はしなかった。だが来てからわたしに慣れるのが早く、あまりにも懐くことが早かったので「懐き」つまり「ナツキ」と命名したのだ。彼女はわたしとの暮らしでほとんどニンゲンと一緒に暮らしているような気になるほど、人間味がでてきちゃった。例えばお腹すいてないかと食事(エサと言わないことにした)を与えると、美味しかった時は、わたしのそばに、ほっぺたに彼女のヒゲが触るぐらい接近して、「猫らしいチュー」をしてくれる。それが素晴らしくニンゲンに近い感情があるのではないか、と思えた。つまり「ゴチソウサマ」を体で表す猫です。そういえば猫って、「恥ずかしい」という感情もあるらしい。猫を観察していると解る時がある!
最近は娘がいるような感覚があり、例えば外に出たいときはドアの前に猫らしい正座をして待っている。わたしは外に出たいらしいのでドアを開けて早く帰りなさいね、と子供に言うよ伝えて、だしてあげる。入院中は猫の専門家の近所の方(家に30匹近くの猫を飼っていた)に頼んでおいたが帰ってくるまで不安だった。ナツキの方も心配だったらしい。ところでわたしのナツキは「聾唖(ろうあ)猫」で最初から鳴かない。だから留守をするときは、毎回不安になる。例えば火事になったら、鳴いて助けを呼ぶこともできない。だから時々抱きしめて「死ぬときは一緒だよ」とささやくこともある。この先彼女と一緒の人生なので毎日食事の世話をする度に「わたしよりも先に死んではいけない」とささやくことにしている。彼女はその言葉を分かっているのか「大丈夫」というようにわたしのズボンの膝のあたりに頭を擦り付ける。つまり「わかっているよ」の意味だと思っている。最近はお互い心が通じ合っているため、何も言わないでいても彼女が何をしたいのか、わかる。ナツキもわたしのことがわかるらしく、顔を眺めている。その度にお互いいつまでも長生きして欲しいと願っているようだ。
2019年11月16日 10:41