高杜 一榮の世界

WELCOME TO TAKAMORI COLLECTION

077bs11s.jpg

高杜 一榮の世界 ≫ 高杜一榮のモノローグ ≫

モノローグ

20191122金曜日

猫を飼い始めて約一年ちょっと。とにかく猫のナツキはまるで人間のように振る舞う。我々がどういう出逢いだったか、を書く。最初家の前のブロックの塀の上に見知らぬ猫がきていた。白と薄茶色の猫だが、わたしは前にも猫を飼っていたのでその猫にうちにあった煮干しや何かをあげたのかもしれない。すると次の日もまた来て、私が出すものを食べた。三回目には「ここでお世話になります」と挨拶するようにわたしの腕の中に飛び込んできた。それからずっと同棲している。最初のころから懐いてしまったので、名前は「ナツキ」にしたのだ。あれから二年以上一緒に暮らしているような気がする。彼女が朝出て帰らない時もあり、いつ帰るのか、どうしたんだろう?とまるで娘か息子を案じるような具合の暮らし。ナツキがいるのは当然と考えていたのだが、ある日暑い日が続いたら、水は飲まない。ペットフードも食べなくなり、心配になった。夏だから、人間のように熱中症になってしまうかもしれない。なにしろ心配なので近くの獣医クリニックに電話で相談したら、連れてきてほしいという。自身は猫のカゴを持つことができないので、人に頼んでハナペチャクリニックに行った。かなりの人が待合室で待っていた。一時間経過して呼ばれて「今日は点滴しておきます」と言われようやく帰ることができた。点滴のせいか、元気で水を飲み、ペットフードも食べた。今そばで眠っている。彼女はわたしが夜布団に寝ると、そばにきて顔の近くまでくる。それで布団を開けて中に入るようにうながしたら、おとなしく布団の中に入ってわたしと一緒に寝た。こうしてナツキはわたしの娘みたいな感じになった。友人にメスか、オスか判らないと言ったら調べてくれて「この子はメスだ」と宣言してくれた。というわけでナツキはわたしの娘です。死に水をとってくれるようにささやいている。彼女が返事したか?「シニミズ?」と両目を大きくした。まるで意味を知っているかのようだった。
2019年11月22日 14:07

20191120水曜日

驚くべきことに最近古い昔のことを鮮明に思い出すという「事件」が起きた。ある日原稿を書こうとノート型パソコンを開いて、そういえば亡くなった夫の森田は、かなり変人だったと、鮮明に思い出した。それも新婚旅行の出来事!。あの当時、わたしたちは付き合って一か月で結婚を決意したというので、周囲は仰天したようだった。その新婚旅行で今でも思い出すのは夫の言葉だった。「お前は何も知らない。男性とのことはお前自身で経験して覚えなくてはいけない」そういう恐ろしいことを告げた。まだ男性と付き合ったことが少なくそれほど経験がないのをそういう言葉で宣言されて、わたしは茫然としたというよりも何を言われているのかが判らずキョトンとしていた。今であれば怒り狂って「キチガイ、新妻をそこらの男性にまるで使い捨てにみたいに投げて捨てるつもりか!」と怒鳴れるが、あの当時はそれをいえるような根性もなければ、度胸もないし、なおかつ彼を好きだったから黙って俯いていた。その後まもなくわたしはお台場のお濠のそばで、しくしくと泣いていた。なぜ泣いていたのか思い出さないが、多分新婚であるというのに、まるで三十年一緒に同棲しているカップルのようなそれも心のない残酷な発言を夫がするので、それが原因で泣いていたのだと思う。どういうわけか、過去のことが思い出され、あの時何故亡夫が新婚旅行の時に非常に理不尽なことを言ったのか、その後の展開を思い出すと理解できない。大抵の夫は新婚時代には「ほかの男と寝て来い」とは言わない筈だ。今でもなぜ彼があの残酷な言葉を吐いたのか理解できていない。その後三十年ほど経過した際に、夫は「お前は節度がない」と述べた。新婚時代に「ほかの男と寝て来い」と言った夫が後に「節度がない」と言ったのだが、その言葉こそ彼のエゴイストぶりを表しているといえる。今なら「節度がない」と述べた夫に「あんたが節度をなくさせたんじゃないんですか!」と激しく怒ることができるのだが、生憎相手はこの世にいない。今でも思い出す。会社の彼の事務所に行ったとき、彼の部下を連れてきて「妻と遊んでもよい」と述べたらしいが、何も知らなかった私はなぜ目の前に彼の部下が座っていたのか全く分からなかった。今ならあの時の怒りをぶつけられる、と思うわたしも蛍光灯すぎるが実際お互いに風変わりな夫婦だったとしか言えない。理不尽な言葉に全く怒らなかった自分をいまなら怒れる。
2019年11月20日 13:38

20191209火曜日

人生で悩むことは多い。だが悩みがまったくないに等しいがいつも悩んでいる状態が継続する。理由は不明。人間のそれは本来持っている性(サガ)らしい。若いころ、今よりももっと悩みがなかったはずなのに悩んでいる時期が多かった。それもかなり小規模なことで悩んでいた。例えばあまり書きたくもない話だが、離婚した母が別れた夫に対して不愉快な心境にいたためか、わたしにある日宣言した。「お父さんのところからお米を持ってきなさい」実は父母は離婚するために、六本木の土地つきの家を売ることにし、売った額を半分にして別け希望通りに離婚した。つまり土地が売れたから別れることができた。父母は四人の子供をいかに二人で別けるか考えたのかもしれないが、息子三人は父が扶養し、娘は母が扶養すると決まった。つまり父は娘の扶養はあまりしたくなかったらしい。一度は兄たちと父と一緒に暮らしたがわたしにとっては、母のいない家庭は居心地が悪かった。それで毎日母の住む豊島区の家に出かけ、学校のカバンを置き、寝泊まりした。学校と父の家と母の家と交互に通っていた。そのため嫌われたと思った父は、娘の養育は母に任せると宣言したらしい。母親は養育費をもらっていないから、悩んでいたらしい。ある日母はわたしに言った。「お父さんのところからお米をもらってきなさい」父の家なら兄たちがいるのでお米はたくさんあるだろう、と踏んでいたのかもしれない。聞いた途端嫌な気分がした。父の家に米をもらいにゆくなど青天の霹靂どころか、搔き曇った天が裂けて火の玉が落ちてくるような気分がした。わたしは重い気分で西武線の電車に乗り、豊島園に向かった。着くと長兄も次兄もいなかった。台所に入り、米櫃を探した。ある場所は分かっていたので、アルミの米櫃の蓋を取り、米を手で握り、持って行った風呂敷に入れた。米が風呂敷に落ちる音が聞こえた。突然玄関に音がした。誰もいないと思っていたが、誰か帰ってきたらしい。わたしは見られるのを憚り、立ち上がろうした瞬間父の姿が見えた。父は米櫃を見て理解したらしく、眼前からすぐ消えた。風呂敷を縛り、駅まで歩いた。西武線の電車に乗った時、人生で一番いやな気分を苦々しく味わっていた。不思議と父に怒りはなく、米を取りに行かせた母を呪っていた。その後母を好きだったわたしは、父のことはそれほど悪く思わなくなり、結婚というものを深く理解できるようになって行った。

 

2019年12月10日 15:19

20191118月曜日

 

どういうわけか小学生ぐらいで語学マニアの基になる環境にいたらしい。当時隣の建物に4歳か5歳程度のアメリカ人の女の子で、父親がパイロットの家族が住んでいた。その当時英語もわからないのにその女の子と付き合っていた。毎朝雨戸を叩き、「アケテヨー」とたどたどしい日本語で彼女は叫ぶ。彼女の名はジミリュウという。当時高校生くらいだった兄が雨戸を開けてくれると、女の子はパーっとわたしの布団の中に潜り込んでくる。キャッキャッと笑いながら戯れて二人で外に行き庭で遊ぶ。今はないが六本木に家があったころの出来事だ。ジミリュウは金髪で可愛い幼児である。わたしは三つほど上だったと思う。ジミリュウとの付き合いで外国語に興味が出て、それ以来新しい外国語を習いたいという夢を抱いた。その癖が未だに残っていて、テレビを見ていると韓国ドラマを見て字幕の意味と発音を耳で聞くという習慣がついている。びょーきともいうべきもので、以後ドイツ語で一から百まで数える習慣ができ、お湯につかっているい時はかならず熱いお湯の中でドイツ語で数を数えていた。「アイン、ツバイ、ドライ」と百まで数える。たまに韓国のドラマをテレビでみて、音声を韓国語にテレビを切り替えて、ただ聞いているだけだが、それが楽しい。幼い時のジミリュウとの思い出の影響かもしれない。そのうちアラビア語かまたは北欧の国のスエーデンやアジアのインドネシア語まで手を伸ばそうという気があるからビョーキかも。ジミリュウはある日突然いなくなった。どうやら仲良くなったわたしとジミリュウの仲を心配した彼女の父母が黙って日本を発つことにしたようだ。おそらくアメリカのどこかに生きているはずのジミリュウに会いたい。

 
2019年11月18日 09:40

20191117日曜日

今朝ドジをした。新しいパソコンで仕事をし出してから約五日程度。そのため慣れるのが大変で、操作に慣れてきたら恐ろしい出来事に見舞われた。というのも以前日本語と仏語の両方を打てるパソコンを使っていたためその機能を今度のパソコンでやってみたら、すぐ仏語の文が書けるようになった。調子にのって仏語を出していたのだが、いざ削除して次にゆこうとしてもどうしてもうまくいかない。その上恐ろしいことに仏語の記号のついた文字が別な操作にも波及して、何度直しても日本語が素直に出てこなくなった。仏語のキーボードはAとQが逆になっていて、いつもの調子で打つと妙な感じになる。同じパソコンでも二か所に別けて一方を日本語、他方を仏語に別けていた方法がわからず、結局パソコンのキーボードまで仏語が抜けず、泡食ってしまった。それで仕方なくやっと仏語の文字が出ないようにするべく必死になって操作し、仏語を一旦削除し、先ほど元に戻った。最初から設定をしてから仏語を導入すればよかったのに、慣れているつもりでやったら、キーボードがやたら使い勝手が悪くなった。 あまりにも使い勝手が悪いので仏語の設定をする機能を調べてからにすることにした。朝からハプニングで、丸一日分疲れた。
2019年11月17日 09:58

20191205 木曜日

2019年12月05日 18:34

20191116日曜日

20191116

某病院で手術を受け、退院して今日で三か月少々経過した。病後の調子は極めて快調。担当医の先生が「転移していないので、安心」とのことで、この先転移する様子はない、とのご託宣と信じることにしたのだった。というわけで自身の暮らしに戻った。中でも心配していたのは猫のナツキ。名前の由来はフラフラと迷い込んできた名も知らぬホームレスの猫に食事を与えたら、三回目に「ここで暮らします」と彼女は宣言したらしい。(わたしと同性のメスです)オスの猫が来たら「オッス」と挨拶し同様に可愛がったはずだが、幸い彼女は「メス」なので、挨拶はしなかった。だが来てからわたしに慣れるのが早く、あまりにも懐くことが早かったので「懐き」つまり「ナツキ」と命名したのだ。彼女はわたしとの暮らしでほとんどニンゲンと一緒に暮らしているような気になるほど、人間味がでてきちゃった。例えばお腹すいてないかと食事(エサと言わないことにした)を与えると、美味しかった時は、わたしのそばに、ほっぺたに彼女のヒゲが触るぐらい接近して、「猫らしいチュー」をしてくれる。それが素晴らしくニンゲンに近い感情があるのではないか、と思えた。つまり「ゴチソウサマ」を体で表す猫です。そういえば猫って、「恥ずかしい」という感情もあるらしい。猫を観察していると解る時がある!
最近は娘がいるような感覚があり、例えば外に出たいときはドアの前に猫らしい正座をして待っている。わたしは外に出たいらしいのでドアを開けて早く帰りなさいね、と子供に言うよ伝えて、だしてあげる。入院中は猫の専門家の近所の方(家に30匹近くの猫を飼っていた)に頼んでおいたが帰ってくるまで不安だった。ナツキの方も心配だったらしい。ところでわたしのナツキは「聾唖(ろうあ)猫」で最初から鳴かない。だから留守をするときは、毎回不安になる。例えば火事になったら、鳴いて助けを呼ぶこともできない。だから時々抱きしめて「死ぬときは一緒だよ」とささやくこともある。この先彼女と一緒の人生なので毎日食事の世話をする度に「わたしよりも先に死んではいけない」とささやくことにしている。彼女はその言葉を分かっているのか「大丈夫」というようにわたしのズボンの膝のあたりに頭を擦り付ける。つまり「わかっているよ」の意味だと思っている。最近はお互い心が通じ合っているため、何も言わないでいても彼女が何をしたいのか、わかる。ナツキもわたしのことがわかるらしく、顔を眺めている。その度にお互いいつまでも長生きして欲しいと願っているようだ。
2019年11月16日 10:41

20191203火曜日

最近幼い少女がいなくなる事件が多い。しかし何故誘拐されるのか、不思議に思う。犯人のプロフィールが出ているのを読んだが理由がいろいろあるらしい。1)両親が離婚して一人だけになり、寂しいので話し相手が欲しかった。2)女性とつきあったことがなく、大人の女性と話ができない。3)会社勤めを辞めて、親が金持ちなので家にいて何もしていない。4)お見合いしてもまとまらず、女性に嫌われることが多い。等々と理由がいろいろとあるらしい。しかし幼い子を連れ帰り自分のところに住まわせ暮らすことが犯罪になると思わないのは、やはり社会性がゼロであるためなのか。両親が離婚し、といえば自身のことになるが父母が離婚したことで被った痛手はあった。あの頃そういえば西武線の電車の踏み切りの前で電車が来たら飛び込みたいと思ったことがあった。離婚した父母からこうむったはっきりいえば被害の一つになるだろう。そう思って電車に飛び込んでいたら今の自分はない。あの時になんでそういう気持ちになったか、といえば母から父の家から〇〇を取ってきなさいと言われたことが原因である。わたしが出している電子本の中にその経緯が書かれている。あの頃離婚して辛酸を舐めたのは娘のわたしだけで、父を嫌いでなかった兄たちは父母の離婚に全く傷ついていなかったらしい。今となっては父母の離婚は本当の離婚にならず、父母たちは籍がそのままで別居して暮らしていた。
2019年12月03日 06:28

20190610月曜日

父の日になると思い出すのは数十年前の父の日のことだった。珍しく父から電話があり、会いたいと言うので六本木のアマンドで会った。当時父母は離婚すると言って、離婚届の用紙をそれぞれ署名し、その後別居していた。兄が離婚届がどうなったか尋ねると、母は父に渡したと述べ、父は母に渡したと述べた。そして双方、夫婦の戸籍はそのまま生涯を閉じることになった。自身が十五歳の頃で、父から電話があったのは十五年以上も経過してからだった。「会いたい」というので何故か父を不憫に思ったのかもしれない。アマンドで待つと父はガラス戸の向こうでわたしを見つけると満面の笑顔になった。父が父の日に電話をしてくるというのは、在り得ない。大体不仲の親子が会うとなればそれが父の日であれば、仕方がない。父とわたしは限りなく疎遠であった。とにかく父が嫌いで自発的に会いたいという気持ちがなかった。そのため父の日はまるで父とわたしのために設定されたのかもしれないと、思えた。実際自ら会いたいなど一切思わなかった。かなり父を嫌っていたのだ。世の中不思議なもので、その大嫌いという感情が摩訶不思議な具合に変化することもある、と後で考えることになった。アマンドのガラスのドアの向こうに、いつも無愛想な父が笑顔になっていたことが、この上なく仰天するほど珍事だった。よほどわたしに会いたかったのか、それとも何か特別な理由があるのか。なにしろ父は働かない三人の息子を育てていたから相当経済的に大変だった筈。父は挿絵画家として戦前戦後かなり有名だったが、その頃は仕事を取るために出版社を回って挿絵の仕事を探していたという。わたしは「父の日なので何か買いたかったけど何を選んだら良いのか全く判らなかったので」と金の入った封筒をテーブルに置いた。父は笑顔でそれを受け取り、封筒を胸のポケットに滑り込ませた。その後わたしの顔をじっと眺めていた。父は何も大した話もしなかったので、自然に母のことを打ち明けた。母と喧嘩したことを話すと「おかあさんのことをそんなにいうものじゃないよ」と述べ母の肩を持った。同調してくれると思ったが離婚した母の味方につくとは思わなかったので内心びっくりした。父はわたしの顔を見て笑顔だった。母に似た顔をしていることに気付いたのだと思う。わたしの顔を穴のあくほど見ていた。その父が亡くなったのはそれから数十年後だったが、父の葬式が終わって家に帰り、一人座っていると、涙がこぼれ、泣くことの少なかったわたしがその日から一週間毎日泣いていた。夫は海外出張だったので、誰も父の葬儀の後泣いたわたしを知る人はいなかった。その後の母の葬儀にも泣かなかった。そのわたしが父の死後、一週間泣き通したのは自分でも内心驚いている。父の日の袋に入れた一万円札を二枚にすればよかったと今では思っている。父と母のことはそれから数十年経過してからようやく判った。結婚と夫婦というものを良く理解できたのは50代過ぎてからだった。父のことで思い出すことがあった。母が離婚してからわたしが母の元に同居するべく住み込んだのだが、最初は母は父から娘の養育費を貰えなかったため、わたしに「お父さんのところで米を貰って来なさい」と命じた。内心ショックだったが仕方なく父の家に行った。誰もいなかったが、米櫃を開け、風呂敷に米を入れている時、玄関で音がした。気が付くと父が立っていた。父はわたしが米を取りに来たことを判ったらしく黙っていた。戸を閉め帰る道で電車の線路が見えた。何故か悲しくて不愉快で電車が来たら飛び込もうと思っていた。それほど米を父の家から盗んだような恥ずべき行為が嫌だった。その時母を憎んだが父を憎むことはなかった。父の葬儀の後の滂沱の涙をだれも知らない。母さえ知らなかった。あれは大嫌いだった父のことを死んだ後はっきりと把握できたために泣けたのだと今では思える。つまり嫌いだった父を理解できた時に涙が流れたということになる。
2019年06月10日 14:45

20191130土曜日

20191130土曜日
実を言えば十代の頃眼科に通うことが多かった。眼科に通っているうちに妙な癖がついた。その癖が水玉模様が嫌いになる癖だった。眼科では小さな容器に目薬を入れて渡された。それを一日数回眼に注ぐ。ただそれだけなのだが、その後外を歩くとすべての景色が歪んで見えるようになった。景色が水玉模様になってしまうのだ。その後その原因が分かった。水玉模様になった原因は処方された目薬に油性の液体が混じっていたためだった。知らないうちは目薬をつけると必ず景色が水玉模様になってしまう。あの世界的芸術家の草間彌生氏の絵画のようですべてが水玉模様になり、何を見ても景色が水玉模様になってしまっていた。そのうち薬のせいだと判明してからはそれほど怖くなくなったが、今でも水玉模様を見ると、微かに不安感を感じる。目薬にも気を付けないと、と思うようになっていた。草間氏には悪いが描かれた水玉に恐怖を感じたことがあるが申し訳ない。
 
2019年11月29日 18:36