高杜 一榮の世界

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モノローグ

20180127土曜日

今日は猫のことを書く。実を言えば猫嫌いだった。以前は生まれたばかりの猫がやってきたときも、「シッシッシッ」と追い返していたほど。ところが十数年前から飼っている友達が飼っているチビちゃんの世話を「ある事情で」任されてから、猫好きになってしまった。そのチビちゃんはかなりの人見知りで絶対飼い主以外人に懐かない猫だった。だが毎回餌を与えているうちに可愛いという「人並に猫を愛する情感」がわたしに育ったらしく、心底可愛くてしょうがなくなった。彼女は食べる時に鼻の上に小さい皺が浮かべる。懸命に食べているチビちゃんの鼻の上の皺を見ると「この子を一生護ってあげたい」と思うに至った。そのきっかけになったのは、最近の出来事にある。いつも朝昼晩と三回カリカリ(乾いた餌)とカツオの切り身を微塵切りにしたものを交互にあげていた。以前は皿の上にのせて置いておくのだが、そのうち食欲がないので強制的に食べさせるため餌を手にのせて食べさせているうちにその方が食べ易いのか、手にのせないと食べなくなってしまった。そのうち何かわたしのドアの開け方に驚いたのか、彼女の逆鱗に触れ、餌を食べないハンストみたいなことになってしまった。つまりわたしへの怒りが高じてハンストしたようだったがそれが続かず、仕方なくわたしが差し出す「お食事」を「仕方なく食べる」ようになった。こうして培ったお互いの「上下関係」というか「猫人関係」というか、その麗しい絆が逞しくなりつつある。最近の出来事では、この極寒の天候のせいで彼女は正式な飼い主が不在のため温かい膝に乗れないため、寒くてしょうがない。それでわたしは密かにホットカーペットを温めておき、自然に彼女がそこにのって眠るようにしかけておいた。だがいつになっても気付いてくれないので困っていた。昨日そのホットカーペットの温もりを確かめるために、触ったら「ギャッ」と声がしてチビちゃんが逃げていった。内心良かったと安堵した。なにしろ密かに温めておいたカーペットに気付いてそこに眠るようにチビちゃんが利用し始めていたのが判ったから。逃げていったチビちゃんに「ごめんなさい」と言ってそっと二階に上がった。飼い主が帰って来るのはまだまだなので、当面この二人暮らしが続くようだ。「チビちゃんあなたの大好きな人はもうすぐ帰って来るからね」と話しているのだが人間の言葉を理解しないチビちゃんはひたすらわたしの手の上のかつおの微塵切りを必死に鼻に皺よせて、食べるだけ。そういえば相棒はチビちゃんに死に水を取ってもらうと言っていたのだっけ。
2018年01月27日 11:01

20180122月曜日

東大の優秀なる若者たちが芸能人と競う番組を良く見かけるが、ヒントありなしにかかわらず漢字を言い当てるなどの問題を解く番組は何かまだ不完全燃焼的な面を感じる。何故なら答えを出すだけなら何も才能がなく知識もなくても解けるものもある。何か問題の作り方にイマイチ深みや知識の濃度が足りない気がする。つまりこの種の知識や知恵に関する番組は、もっと多様性のある濃度の濃い永遠の知識に関する問題を編み出すべきではないか、と思う。なにしろ答えを当てるのは、単純でなおかつ意味も深くない。問題の中にもっと教養と知性を感じさせるより高度な多様性が欲しい。つまり今までにあった問題はもう古いシステムの中で作りだされた物が多く、新鮮なものが少ないということだ。クイズ番組は時代と共に切磋琢磨し、より高度な知性と教養へと高みを目指して欲しいと思う。クイズ番組は遊びの番組ではなくもっと深い感性を養う種類の教養番組になって欲しい。今のままではおそらく壁に打ち当たると思う。今のままでは出演者の才能を無駄遣いし、なおかつ視聴者の感性を無駄に浪費させてしまう。東大の名前を濫用のし過ぎともいえるし、番組作りがマンネリになってきているようだ。出演者や視聴者などの若者たちの才能や時間を浪費していることになる。彼らが遊びで参加しているかもしれないが、それは才能を無駄に使っていることに他ならない。もっとクイズ番組は進化すべきではないか。
2018年01月22日 20:14

20180109火曜日

あけましておめでとうございます。元旦から雑事が続きようやく更新に至りました。今年もよろしくお願いいたします。ところで今朝某テレビで、空港でアメリカから帰国した若者をインタビューしている会話を聞いてやや驚いた。「その荷物は何ですか?見せてくれますか?」「ええ、よいですよ」答えた若者は父の好きなものを買ってきたと答え、ダンボールの中央を切り開き、大きなパックを取り出した。「これポテトチップスのバーベキュー味なんです」日本にはこの味のポテトチップスが手に入らないのだとか。それも莫大な大きさのカートンボックスがすべてこの特大のポテトチップスの袋だとか。「この袋は一日ももたずになくなります」父親思いの息子だと感心した。しかし見ていて昭和平成時代の終わりを感じた。つまりアメリカ留学はこのように下駄履きやゴム草履履きスタイルで「ごく庶民的で非知性的でなおかつ家族的な意味」が多くなっているのだろう、と感じた。別にポテトチップスの味を研究し論文を書けとは望んではいないが、ある意味明治昭和時代の苦学生的色合いが全くなくなっているということか、と当然のことと感心した。多分驚いて呆れているのは昭和生まれのわたしだけかも。ポテトチップスのバーベキュー味が食べたいかと聞かれたら「それほどとも思わない」と答えるだろう。アメリカナイズされた食べ物には何かしら抵抗があるのは健康指向だからか、それともダイエット指向だからか不明だが今のままの指向で生き続けたい。Mというチェーン店のハンバーグの味も安いから仕方なく入って食べるのだが、心底好きかと問われれば、心底好きではない、と答える筈。食べ物の指向が変えられるのはそれほど望んではいない。日本人の食べ物をひたすら常食とし、死ぬまで同じままで暮らしたい。
 
2018年01月09日 07:49

20171216土曜日

昨日は多忙だった。年賀状を書いてほぼ例年の半分の枚数を書きポストに投函した。まだ20数枚残っているので、随時に書いてゆくことにする。ところがすでに年賀状を書いたリストの中の友人が昨日になり喪中の葉書を送って来た。年賀状の発送と同時に喪中の葉書がきたような具合なのでどうしたらよいか困っている。すでに出してしまったので、謝罪しなければならない。ところで謝罪といえば、最近某熟年女優が不倫したとかで、夫婦それぞれ記者の取材に答えていた。あれってまるでマスコミ生贄事件としか言えない。主なニュースがないので、不倫を見つけてニュースにするしかないというほど業界は悲惨なのか?不倫と断定された者には堪った者ではない。それが誤解であればほとんど悲劇だ。大体取材する方は予め落とし穴を空けて待っていて、すっぽり嵌った芸能人を生贄として取り巻くという事態に持って行くのではないかと推測される。ある意味「やらせ」に似ている。つまり誰でもが、在り得る事なのに「不倫」とレッテルをつけて事件を「演出」してしまうのだ。芸能界は政界と同じに恐ろしいところらしい。よほど神経が鋼鉄のごとく逞しく頑丈に出来ていないと罠にはまることになる。しかし中には不倫だろうがそうでなかろうが、とにかくテレビに顔と名前が出るから「しめた」と思う人もいるかも知れない。もっとも芸能人には神経が太ければ太いほど名を売る良い機会に恵まれていることになる。頑張れご両人と拍手を送りたいが相当有名であれば、かえって迷惑。ところで今から数十年前はこうではなかった。普通の人々は不倫はかなり人生とは逸脱した出来事と把握している人がほとんどだった。そういうわけで亡夫との暮らしは類稀な出来事が多かった。新婚時代から奇妙な場面に出会うことになった。亡夫は元々FSつまりフリーなセックス礼賛者だったために不倫を奨励し、タブーを解除すると宣言された。わたしが小説を書けるようになったのはそのタブーを解除されたためだったらしい。しかし完全に解放されたわけではなく、そういう世間とはやや離れた空間に押し込まれていただけであったといえる。詳細は過去の作品の中に描かれている。
 
2017年12月16日 06:36

20171128火曜日

北海道札幌において十二歳の少年が二十代の女性を刃物で刺すという事件が起きた。少年は「人を切ってみたかった」と供述しているという。ここで自分の意見を述べたい。人間は性的な成長をある程度達成すると、肉体が性的欲望に煩悶することになる生き物である。つまり肉体が熟すと、性的欲望の最盛期を迎える。そうなるとどうなるかといえば、性的衝動で身体が勝手に動き出し、日頃考えている以上のことを成し遂げたいところまで行ってしまう。人間を殺すことになるとは思えないで刃物で女性を刺してしまった。ここで彼は自分が刃物を持って女性を刺すことが殺人になるとは、想像できていなかった可能性がある。刃物は性的成長の延長線上に出て来る必需品になってしまう。成長すれば女性を愛する方向に熟する。だが一方肉体の方は熟すが脳の中はそれが殺意に繋がる危険性を孕んでいるのを知らない。または微かに判っていても、停めようがないほど「成長してしまう」のだ。性的成長が殺意へと熟してしまうのは、当然のことだが、意外に知られていない。つまり男性の性的成長は殺人行為に近接する可能性が高いパーセンテージになるともいえる。家庭で男の子を持つ父母は特に、この性的成長の監視役にならなければならないが、父親は意外のこの面での見守り役を率先して手掛けるという意志がない。自分の青春時代を思い出し「勝手に成長するはずだからそれほど心配しない」というほどの「緩み具合」だ。息子が女性殺害をしてしまう父親は自身の青春時代と較べて「ま、大丈夫だろう。オレはあの当時普通の男として成長していたし、絶対刃物で異性を傷つけることはしない筈」とそれほど気にしていない。誰しも自身の息子が刃物で異性を殺すなど考えたくはない。想定外のことらしい。性欲または愛が殺意に繋がっているというのは判るようで理解できないといえるが新聞には「愛イコール殺意」という図式の事件が載っている。人間はそういう類の生き物なのか?これは真面目に研究すべきテーマでは?
2017年11月28日 07:07

20171125土曜日

どういうわけか今真夜中の12時前。何故書くことになったかといえば、その少し前に笑福亭鶴瓶が坂井真紀という女優と対談しているのを観ていたのが契機となり、その番組が終わったら、何故か奇妙な衝動が起きた。この「思い」を書かねば。書かねばならない、と思ったようで、ガス暖房をつけ、パソコンを開いた。何故そうなったかの疑問が起きるが数日前から怒りのエネルギーが自然に発生していて、どうやらそれが原因らしい。怒りは数日前から起こっていた。だが数日前に何が起こったのかは、不明。だがどうやらそのエネルギーが燃え上がり何か書かねばならないという衝動が起きたようだ。しかし鶴瓶が何かおかしいことを述べていたのではない。何に対して怒っていたのか不明だがどうやらこの前から起きている相撲界のあの事件のとばっちりのせいかもしれない。何かすっきりもしないトラブルのせいでほとんど関係ないエネルギーがこっちにまで飛んできたらしい。なにしろあの世界ではまだあの事件がすっきりと解決していないらしい。原因はいろいろあるらしいが相撲の競技が数秒で決まることになっているのに、この事件だけは数秒では決まらず延々と続く見通しのようだ。相撲界だから、数秒でことが解決すると思ったら延々と揉め事は決着を見ない。そうなるとテレビのこちら側で見ているほうが、何故かイライラとその決着のつかぬ不快な空気を貰い受けてウジウジしてしまったようだ。だれか両手を叩いてシャンシャンと解決を強引につけて欲しいと願っている。なにしろ数秒でかたの着く勝負師の世界だから、きっぱりと強引に落着して欲しい。それが観客のほとんどの「キモチ」ではないのか?なにしろ国技で短い間に勝負が決まる競技だ。だからなのかどうか不明だが、すみやかに「シャンシャン」と解決つけて欲しい。生まれたばかりの「シャンシャン」がそう言っている。どういうわけか、十年以上飲んでいなかった日本酒を飲んでしまい、この真夜中にこの文をしたためた。
2017年11月25日 00:07

20171121火曜日

力士を巡る、貴乃花の弟子が横綱の日馬富士に殴られたという暴力事件でテレビでは「あーでもない」「こーでもない」なおかつ「ああだろう」「こうだろう」という風に問題が膨らみ、歪み、そしてなんとなく曖昧なものが露呈して来た。つまり日本的伝統的な世界に面子とか日本的で、いまをときめく「忖度」とかが出て来て勝手に振舞っているような印象がある。事件は暴力事件だが、何かもっと優雅な要素があり、その上その逆の非優雅なものが拮抗していると思える。力士の世界は潔く決着がつくと思われたが、そう簡単ではないようだ。関係ない世間の人びとは早急な解決と決着を望んでいる。あの狭い土俵の上で当然の正義を貫くことを期待している。今回この報道が盛んにテレビで出て来ると、まるで今世紀最大のニュースみたいになっているが、少なくとも北朝鮮の頭領の話題よりもいくらか緊張感が少なくて済む。しかしどうやら貴乃花にはこの機会に日本で角界の大改革を巻き起こしたいという意志が働いているように感じる。それほど長い間相撲の世界は因習や変えようもない古いしきたりなどで身動きが出来なかったのだろう。良い機会というか、以前から溜め込んだ人間の身体でいえば、ストレスが原因で内臓が蝕まれていた肉体を改造するというように、最適な機会を迎えたと思えば良いのではないだろうか?貴乃花一人で出来なければ誰か外界から助っ人を送り込んで改革の狼煙を上げてもらうべきではないだろうか。日本の相撲の世界の改革は是非行われるべきではないか。改革により、新たな相撲関係の人材も増えるはず。
2017年11月21日 05:48

20171119日曜日

このところドジばかりの日々だった。一月前路上で転倒し、額にコブ眼の周りにクマとまるで歌舞伎の扮装のごとく、目立つ顔になっていた。クリニックの医師は元に戻るのには一月掛かるといわれた。その通り最近では傷が目立たなくなった。すると別な事件があった。大体金庫には金目のものが入っていないにもかかわらずパスワードを更新していたために、更新したばかりのパスワードを失念。そのため業者を呼んでみたが「後は壊すしかない」と宣言され、万事休す。財布小銭入れまで入れていたため、一時的に周囲に金を借りるほど困り果てた。最終的に金庫のメーカー側に頼んで修理にきてもらった。その手があったのか、とようやく自分の粗忽を悔いた。呼んだ業者の数が多くなり、頼んだ総額はメーカー側の修理を含めて五万。友に「金持ちだ」と言われたが正確にいえば「ソコツだ」と言われるべき。自身の愚かさに呆れた日々だった。過ぎてみればどうということがないエピソードだが、当の本人にとっては、最悪な事態だった。なにしろ金庫の中にあるのは、売れもしない地方の土地の権利書ばかり入っているのだから土地を買い漁っていた母と兄を恨みたくなった。もっとも二人のせいではない。自分のソコツが原因なのだから、恨む必要なし。最近ではとにかく必要不可欠なものしか持たないことにしている。横浜市と熱海函南の土地に興味のある方はお知らせください。
2017年11月19日 05:00

20171110金曜日

最近の殺人事件で改めて姓名判断信奉を確信した。自身は十代の頃からこの分野に傾倒していた。母の影響もあるが、毎日、新聞記事を読み、事件や事故があると必ずその被害者の名前を確認したものだった。今回27歳の青年が9名の若い命をまるで大根でも処理するように「消した」という事実に愕然とした。そしてその驚愕が覚めやらぬうちに、各被害者の名前を従来の姓名判断で占断してみたのだが、恐ろしいことに被害者一名を除いてすべて凶の画数を持っていた。例えば高木という姓と和子と言う姓があったとすると、「木」と「和」を足して中心運を占う。「高」と「子」を足して「外画」を占う。中心運はその人に備わった人生の運を表わし、外画はその人が他から援助される運を表わす。なおかつすべての名前の画数を足して総画数を占ってみた。ところが今回の事件の被害者は一名を除いてはすべて凶数で、驚いた。遺された一名は何が原因で事件に巻き込まれたのか理解できないほど運の良い名前だった。事件に巻き込まれて亡くなったのは、おそらく生年月日での占断による運が作用していたのかもしれない。画数数えてみて恐ろしいほど当たっていたので、人生すべて姓名判断で推し量ることが重要と考える。ちなみに今回の犯人の名前の画数を調べたところ、姓の二番目の字と名前の一番目を足すと人格の運になるが、22で凶と出ていた。姓名すべての画数を合計すると、総格の数字になるが、38で気が弱くリーダーシップは取れない。人に尽くしても報われず、精神面のダメージで倒れる暗示があります、と出ていた。なるほど100パーセント姓名判断通りであった。(参考した本 「姓名判断」著者文屋圭雲著 ナツメ社))
2017年11月10日 11:36

20171109木曜日

最近自作の二作品が、電子本で発行された。一作は「カション江戸を変える」発売元はボイジャー、もう一作は「ふまじめなエメラルド」これはアマゾンで販売されることになりました。WEBで検索してみてください。もし見つからない場合はこのHPに付属しているメールでご連絡ください。作品を解説します。「カション江戸を変える」は1855年琉球に上陸したフランス人宣教師メルメ・カションが日本語を習得し、徳川十四代将軍家茂と公使ロッシュの間で通弁官として活躍、後に駐日仏外交官として歩み続け、幕府の体制を近代化させることに成功するまでの彼の足跡を描いた作品。カションが存在していなければ、日本には日仏通商条約も成り立っていなかったし、横須賀製鉄所を建設するなどの事業も生まれていなかった筈。日本国が日本と言う名もなかった頃「大日本帝国」を築く大きな転換期に出現した重要人物である。だがカションにはまだ不思議な出来事が多い。カションの本(「カション幕末を走る」文藝春秋刊、を出すことになった時は、カションの晩年の年月日が不明のままだったこと。本を出す寸前の2010年頃、やっとメルメ・カションの晩年の地がカンヌだったと判明したのだった。なおかつ極く最近になりカションがフランスに帰国してから十年間ほどパリの外務省に勤務していたこと、結婚して二人の娘がいたことが判明したのだ。何故彼の足跡が長い間隠されていたのか?この不思議な真実の露見は一体何を意味しているのか?どうもその辺に何か大きなものが隠されているような気がする。

二作目の「ふまじめなエメラルド」は幼少時六本木で育ち、当時山羊を飼うことを決めた父母はロシア人と日本人の混血の女性から山羊を飼い、子供たちに山羊乳を飲ませた。当時六本木は外国人家庭が増えてきて、小さなアメリカ人の女の子が朝早く雨戸を叩き、戸を開けると走って入ってきて、わたしの布団の中に潜り込んで来た。彼女がジミリュウで、当時四歳程度だった。そうした思い出を綴った作品だ。「ふまじめなエメラルド」とは誰にも心の中や自身の中のどこかに宝石がある筈で、その宝石は磨かないでいるうちに、何時の間にかただの石になるかもしれない。エメラルドやそのほかの宝石も知らず知らずに光り輝く。気づいた時に磨き光らせるのはその人の努力かも知れない。いつのまにか生まれてしまう宝石にはふまじめではなく、真心で向き合わねばならない。特に自身の中に芽生えた見知らぬ宝石には心を配り、注意しなければならない。そういう思いで書いた作品である。ジミリュウとの出逢いは映画化したいと思っている。作品へのアクセスは下記に
猫の本屋さんでは次のURLよりBinB Storeにリンクしています。
http://pbc.on.coocan.jp/store/index10_01.html#book3108
2017年11月09日 23:56