高杜 一榮の世界

WELCOME TO TAKAMORI COLLECTION

024s

モノローグ

20200807金曜日

わたしの父は戦中戦後挿絵画家として名が知られていた。戦中召集され呉港の海軍に配属されていた。運の良いことに、雑誌や新聞に挿絵を描いていたので、兵士としても優遇され、毎日上官の似顔絵を描いたり、軍艦や軍機の挿絵を描かされたりして、過ごした。兵士仲間が上官に殴られていたのを知らされ、上官に会いに行き、「彼はわたしの仲の良い友人です。わたしは何でもしますから彼を開放してください」と頼み込んだ。助けられた兵士は父に感謝し、涙をこぼして喜んだという。ある日呉の兵舎の前で広島の方向を眺めていると天が真っ黒になり、轟音が聞こえ、モクモクと煙が出ていた。「広島で何かあったらしいぞ」と皆で騒いでいた。それが原爆の雲であったのを東京に帰ってから判った。彼はその雲を見る前「広島に行くが一緒に行かないか?」と仲間に言われていたが、たまたま上司の命令で軍艦の挿絵を描いていたので、行かれなかったという。仲間は爆撃で不帰の人となった。父が青森の家族のところに帰ってきた時は、よれよれの汚れた軍服に真っ黒の汚れた顔だったために、母は一目に見て「幽霊か、と思った」と言っていた。父は原爆をその両目でしっかりと見た日本人の一人だったが、「原爆を見た」という顔は喜色満面。恐ろしい原爆を自分で見たことが喜びの一つだったらしく、話すときは両目を輝かせていた。今思うと、単なる挿絵画家の彼が見た原爆が世界の終わりであったかもしれないが、その瞳はまるで悲劇を語る眼ではなかったことが、今でも「どういう人だったのか?」と不思議に思う。やはり戦争体験が感情まで麻痺させていたとしか、思えない。
2020年08月07日 12:08

20200804火曜日

三十代の頃、某大使館の秘書として働いていたことがある。それも仏語圏の大使館で館員は皆浅黒い人々だった。何故アフリカ系の大使館に職を得たかといえば、不思議なご縁といえる。なぜならそこに職を得る前に、地球儀を最初見た時から、マダガスカルを発見、いつか行ってみたい国はマダガスカルであったから。マダガスカルはアフリカ大陸の(地球儀で見ると)インド側の方向に面して存在する島だった。何故マダガスカルに一度行ってみたいと思っていたのか、といえば不思議なことに「いつかこの国に行ってみたい」と地球儀を与えられたころから思っていたためだ。ある日象牙海岸(コート・デイボワール)国という国を地球儀上に見つけた。名前に魅かれたともいえた。仏語を使える秘書を募集していたので面接に行ったら、即採用された。象牙海岸はアフリカといっても、海岸と名前がついている通り、海に面している。マダガスカルの大使館があったら、そこに勤めることにはならなかったかもしれない。まだ象牙海岸の大使館のことを知らなかったが、来日まもない代理大使という地位の人の秘書になった。その上司は物凄い車に乗っていた。ジャガーのEタイプだった。ある日買い物に行くという上司の参事官についてゆくと彼の車ジャガーのEタイプの助手席に乗る羽目に。大体こういう派手な車を見たこともなかったし、それほど好みではないため内心勇気が必要だった。なにしろ車の上の部分はオープンなために、皆見る人が多い。車の色は赤だったと記憶しているが、定かではない。ある日青山辺りの交差点で車が停まってしまい、結局警察を呼ぶ羽目になった。しかしながら大使館では様々なことが起こったが、何かコミカルで楽しいことが多かったと思う。今から数十年前の話だ。
 
2020年08月04日 18:20

20200901part 2

2020年09月01日 11:37

20200802日曜日

最近不幸なことに肥り始めてきた。聞くところによると「年を取ると瘦せるのが難しくなる」という情報を得た。つまりどう足掻いても着々とデブへの道をひた走っているらしい。本気で痩せたいなら区役所で開いているジョギングコースのある体育館に行って走るだけだ。昨日駄目でもともとと思い、近所周辺を走らないでひたすら歩いた。九時に出発して戻ったのは九時四十分だった。今日もそのぐらい歩きたいが無理かも。肥らないためには食べなければ良い、と思い何も口に入れなかったが、最終的に夢中で水を飲み冷蔵庫を開けたり閉じたりして口に入れても良いものを摂取。母がかなりのデブ体形していたので、彼女の二の舞にならないように気を使って早期デブにはならなかったが、ある程度年を取ると肥っても「ま、いいや」という諦めの呟きが脳裏の隅をネズミのように走る。友が冷たく言い放った。「年取ると痩せるのは難しいんだって」ガーンとその言葉が四十分歩いた脳に響き渡った。明日また歩こう。なにしろ継続は力なり、というのだから、続けねばならない。52キロだったわたし何キロになっているかまだ計っていない。母のような体形だけは避けたい。しかし母は亡くなる時はまるで半分になり痩せていた。
2020年08月02日 12:07

20200801土曜日

最近テレビでメロン農家が盗難に遭った事件を報道していた。メロン農家のその被害の深刻さを知った。それによるとメロン農家ではある日の朝、メロン畑を見てまわっていたところ、その日に出荷予定だったメロンがすっかり刈り取られていて、一つも残っておらず、盗難に遭った、と気付いた。翌朝に出荷予定なのに、昨日確かめていた見事なメロンがなっていたのには突然のことなのでショックが強かった。メロンの匂いが充満していたが、微かに匂いが残っていただけ。「すっかり盗まれてしまいました」農家のご夫婦は落胆して、声もでない有様だった。「ほんとに酷い」犯人はその朝に出荷と分かって早朝にメロンを盗みにきたらしい。その様子をテレビ画面で見て、わたしはまるでその農家の夫婦を実の兄夫婦かのように思いやって、本当にご苦労なさったんだろう、と気の毒になった。そしてメロン泥棒に対して怒りを燃やして、コノヤローという気分が頂点になり、あまりにも怒りが激しかったので、今からそのメロン泥棒を捕まえるために、その農家を調べて訪ねてみようか、と本気で思った。「自分が明け方に行って見張っていて、メロン泥棒を見つけたら取り押さえてやりたい」とまで思ってしまった。それほど真剣にメロン泥棒に本気で怒ってしまった。ほとんど漫画チックな気分の高揚だが、実際本気でメロン農家を助けたいと思った。メロンが大好きだとか、そういう理由で怒っていたわけではない。まともに本気でメロン泥棒に怒りを抱き、メロン農家の損害を悲しく思った。どうか二度と起こらないように対策を立て、頑張っていただきたいと思っている。しかしながら画家とか物書きとかの職業よりも、実際に野菜や果物を栽培している農家の方々の苦労はパソコンの仕事とはかなりの落差のあるお仕事でその分苦労が半端ではないのをやっと今になって分かった。自身が怒りを抱いたために、そのご苦労が身にしみて理解できたと思う。
 
2020年08月01日 20:31

20200731金曜日

この前三浦春馬が自殺したが、週刊誌の情報によれば生母との関係に原因があると思われた。母の愛を豊かに与えられた者ほど、その恩義に応えなければならないという暗黙の空気が世間に在るのは確かかもしれない。三浦氏の自殺が意味するものは、沢山あるが彼が悩んだ末に辿り着いた地点で、彼はようやく安堵しているのか?それはどうなのかは知らないが、自身は同じような経験をしているので理解したい。母を愛したが壮烈な喧嘩もした。その上結婚には大反対され、その大きな壁を無理やり越えて結婚を断行した。今思えば、一応自分なりに意志を通すことが一番解決だと思っていた。しかし若いからできたのであって、あのようなエネルギーはあの時だけ。現時点で思うのは、親の言いなりになり、一生独身で過ごすことになっていた可能性はあった。母を愛するのは誰でも味わうことだが、母に背を向けることが成長への道と感じていたらしい。前に書いたが母に「結婚しても一生子を持たない」と宣言したことがあった。母は「それは狡いよ。母となった苦労を知って欲しいのに」と言われた。確かにその言葉通り母になっての苦労と子を持たない苦労とは格段に異なるだろう。今現在年を取って「子供を持っていたら今頃孫に囲まれて暮らしていたのだろう」と味わうことのなかった世界を空想している。母は四人の子を持ったが、後にこう呟いた。「四人の子を持てば四つの悩みがついてくる」と。それにこうも言った「四人の子をガソリン掛けて燃やしたい」それを聞いた時にそれほどショックではなかった。だが母がそれほど父を嫌っていたのを分かった。わたしも父を嫌っていたが、意外にも父の死後一週間泣き暮らした。母は別居した父には会わないで暮らしていた。今思えばその「ガソリン掛けて燃やしたい」という母の激しい言葉で、わたしは子供を持たない人生に切り替えたのかもしれない。そう思う。母の血を受け継いでいれば、恐ろしい結果になっていたのか?なにしろ父母は夫婦仲は悪いし、年取ってから離婚だと騒いだ。(実際には別居だけになったが)わたしは子を持つ喜びはなく、子を持たなった孤独を持つことになった。(それほど孤独を感じてはいないが)今となっては占い師の言葉を、母を通じて知らされていなかったらわたしの人生も変わっていただろう。「この方は子を作ってもその子は全く頼りになりません」別に頼りになる子を持ちたかったわけではないが、案外この言葉に導かれていたのかもしれない。ある時わたしは友人に言っていた。「子を持たないけど自分の小説が子供と思っている」一応ある程度の数の子ども(本)を持ったが、死ぬまで後何名の子ができるか、興味津々。
 
2020年07月31日 11:32

20200730木曜日

最近何故か暗い。多分10ワット位の電球のよう。そういえば以前はかなり明るかった。ワットにすれば100ワットの電球のようだった。理由なく暗いのは別にその種(たね)になる要素は全くない。どうやら理由なく暗いのは「鬱」という名の症状らしいが、自身の場合鬱の種が全くない。一応生活は満足しているし、自分の活動には何の暗い要素はない。だから鬱なのかも知れない。大体若い時から明るかった。いつもにこやかに笑って暮らしていた。だが年を取ってから鬱になったようだ。それもほとんど理由なく。こういう場合どこかに働きに行けば良い解決になるのかもしれないが、以前何の目的もなく求職という方向にハンドルを回してみたが、帯に短しタスキに長し、というわけで不可。たまたま求職したら入社となったが、気が短いのが災いして途中で辞めてくるという事態になった。つまり勤めには向かないということだ。その上老齢のため、思考回路がやや歪んでいるらしく、暮らしの方法が楽な方に流れやすい。某人物に「認知症」を疑われ医学的に措置を取るように助言された。それを掛かりつけの医師の先生に話したら「あなたは認知症ではありません」と言われた。というわけで認知症を言ってくれた人に伝えたいが、トラブルになるといけないので、黙っていることにした。最近家にゴロゴロして有益な活動をしていない。自身の場合ゴロゴロというほど音が出るような生活ではなく、音で言えばむしろ「シュワシュワ」という泡のような液体状態。それでも死ぬまで生きていなければならない、という不自由。そういえば86まで生きた母はいつも言っていた。「早くお迎えが来ないかな」と。その度に「ママにはお迎えが来ないよ」「なぜ?」「だって、人間は目的が在って生かされているんだから、ママにはお迎えはまだね」と偉そうに言っていた。母は86歳で亡くなったが、わたしはそれ以上生きそうな感じ。そういえば近所の90歳近い老婦人が言っていた。「早くお迎えが来ないか」と。その後彼女はお迎えが来たらしく数年前に亡くなった。今は彼女の家は取り壊され、新しい建物が建っている。わたしのところも同じように売りに出されるか、などで人手に渡って、そのうち取り壊されて、家自体なくなるのかも。そうなると今のうちから終活への活動をしなければならないだろう。そういえば最近写真の整理をしていたら、母の関係の写真が莫大に出てきて、見知らぬ人々の写真だけになっていた。母の姉妹に写真を沢山送ったら喜ばれた。そういえば昔六本木で山羊を六頭か七頭飼っていた時期の写真があったが、何時の間にか手元にない。あの麗しき時代の写真を見つけて眺めて暮らしたい。そう最近思っている。いつか捨てられてしまうかもしれない写真を脳裏に浮かべて、あの時代が一番懐かしく思う。あの頃が悩みが一切無かった時代だったと脳裏が呟く。
 
2020年07月30日 15:51

20200728火曜日

幼い頃四歳か五歳かアメリカ人の幼児と仲良くなって遊んだことがある。当時のことは以前書いたことがあるが、再度思い出したことがあるので書いてみる。当時六本木の、今はヒルズの傍の公園(高台)に家があった頃の話だ。アメリカ人の女の子と友達になった。彼女は朝起きると一人で外に出て隣の家の、つまりわたしのうちの敷地まで入ってきて、雨戸をドンドンと叩き「アケテヨー」と覚えたばかりの日本語で叫ぶ。すると兄が雨戸を開けてやると飛び込んできてわたしの布団の中に突進してくる。二人できゃーきゃーと叫んだりしてから庭にでたりして、遊んだ。ごはんの時も、家族が丸い卓袱台でお椀にご飯で食べている時に、母が小さいご飯茶椀と小さい味噌汁用の木製の碗に盛ってあげると皆と一緒に食べる。ジミリュウという名の彼女の父親は、パイロットだということを後から聞いた。彼女の母親は日本人の家庭でごちそうになったと聞いて、わたしをランチに招いてくれた。その後母とわたしは彼女の母親の運転で横浜までドライブに連れて行ってもらった。ジミリュウの母親がGHQのスーパーらしきところで買い物をするのを待っていたこともあった。だが二人の交流はある日突然なくなった。わたしはいつ彼女が国に帰ったのか覚えていない。二つの家族の交流はある日突然の断絶になってしまった。おそらくジミリュウの母親は娘が泣いてしまうから、日本からいなくなることを、我々には黙っていたらしい。娘が泣くのを避けるために突然の帰国にしたのではないか、と推測している。わたしよりも三つほど下のジミリュウは今アメリカのどこかで生きていると思える。パイロットだったお父さんが軍のパイロットなのかそれとも民間のパイロットだったのか、知らない。ジミリュウの名前はジミーという男性の名前の女性版だったと思える。わたしの父はカメラを持っていたが、彼女とわたしとの写真はない。宣教師の家族が崖の上にあったが、その宣教師の姉と弟の写真はある。今から七十年前の話だ。ジミリュウの思い出はまだ沢山あるので、思い出したらその都度書いて見ることにする。
2020年07月28日 13:31

20200726

最近過去を思い出し、怒りを浮かべてしまった。実は亡くなった元夫は非常に変わった人だった。変わったというよりも、超進歩的というべきか。彼は新婚旅行先でわたしにこう宣言した。「君は性的経験が非常に少なく、そのままでは人生明るくない」「もっと異性を知り性的にも成長して欲しい」内容はこのような意味のことを言っていたらしい。結婚したばかりで何を言っているのか不可解ながら、非常に優しく真面目な夫だったので、解ったふりをしていた。だがその数年後、彼は彼の部下にわたしを紹介した。彼が目的としたことはわたしと部下がどこかに出かけ仲良くなり、ベッドインして欲しかった、ということだった。こういう変わった配偶者と結婚してしまったわたしは災難だったが誰にも相談できなかった。母にも友人にも打ち明けたことはなかった。彼の会社の部下を紹介され、内心「またか」と彼の奇行を苦々しく思ったが、何も言わなかったし、彼の思惑通りにはならなかった。それから数年して彼の思惑通り、その際の相手はフランス人と親しくなった。パリまで出かけ彼の希望通りに「することは、して」帰国した。その際成田で出迎えた夫は言った。「ああ、帰ってきた、よかったよかった」それを聞いたわたしは、内心呆れていた。これでわたしが日本に帰らなかったらどうなっていたのだろう?わたしが帰らなかったら泣き通していたに違いない。本当に優しい夫だったがある意味愚かな男だった、と思う。最近彼に対して怒りを抱いている。その不可解な発言を今になって蒸し返して怒り、彼が亡くなっていないのに怒りが強烈になっている。二人ともおかしな夫婦といえる。しかし世界には彼と良く似た種類の夫もいるだろうと思える。今考えると自身は良く我慢をしたと思う。
2020年07月26日 20:37

20200725土曜日

週刊新潮の7月30日増大号のエッセイでゲラゲラ笑ってしまった。それまでゲラゲラ笑ったことがなかったので、珍しい出来事だった。今回は北方健三氏のエッセイで笑い転げた。鮑を海岸かどこかで見つけた北方氏は、鮑を蛸が丸ごと抱え込み(多分人間が襲うときに窒息させるようなやり方、おそらく顔全部を抱き込んだらしい)ムシャムシャ食べてしまったのを見てしまった。北方氏は自身も鮑を食したいと願い、市場で買い入れて持ち帰ったのだそう。ところが家に帰ると容器の中の鮑は一つもなく、図々しくも蛸がふんぞり返っていた。それで蛸が犯人だ、と気づいた。自分が買ってきた鮑を蛸が食ったとようやく判断したのだった。北方氏のお母さまは「お前は蛸よりも頭が悪い」と述べられたという。良くぞ息子にそういうことを言ったものだ、と思えたが自分の息子が、自身が食べたいと思っていた鮑を食卓にのせるまで、注意せず、蛸に食べられたのに対し怒りを抱けばそういう言葉になるだろうとは思える。しかしわたしは大体貝類は蛤をはじめ大体好きではない。だから怒りを抱かないかもしれない。鮑を食べられなかったのは非常に残念だが、新鮮な魚介類には様々な注意が必要らしい。魚は好きだが蛤や鮑などの類はそれほど好きではないが北方氏の逸話は非常に印象深かった。
 
2020年07月25日 15:28