高杜 一榮の世界

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モノローグ

20200524日曜日

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前回小泉八雲のことを書いたが、本日は事情により別なテーマで書くことにしたい。最近のテレビも雑誌もコロナ騒動の話題でコロナから離れようとしない。敢えて今回コロナからやや離れた話題を中心に書きたい。コロナつながりではないが、病気というテーマで今回は書く。実は以前も書いたかもしれないが、しつこく自身がバセード氏病になった時のことを書く。十代後半かニ十代初めにバセード氏病になった。階段を昇る時、心臓がドキドキしたり、汗をかいたりした。それでその専門のクリニックに診断をお願いしたところ女医の先生が「あなたはバセード氏病です。わたくしが錠剤を処方しますが、これを毎日飲みなさい」と白い錠剤をわたされた。その際その先生は「この薬を飲み続けないとあなたは死にます」とほとんど断言するように述べた。わたしは「死にますよ」と言われたことに相当腹を立てたらしく、薬は一切飲まず、プールに行き気持ち良く泳いだり、歩いたりした。すると汗をかいたり、ドキドキと動悸をしていたのが、全くなく、すっかり治ってしまった。それで自信を得たわたしはそれ以後医師の話を鵜呑みにせず、自分の思うまま暮らすことにしている。誰でもわたしの方法で治るわけではないが、わたしのように医師の言葉を鵜呑みにしないで、病を克服できる人も存在すると言いたい。以後よほどのことがない限り医師の言葉に頼ることのない日々を過ごしてきた。おそらく死ぬまでこの流儀を変えないと思う。わたしはわたしで人生を歩いてきたと思うが、誰でも同じようにできるわけではないので、お勧めはしないが、医師の話を鵜呑みにして人生を狂わせないようにご自分に内蔵している力を信じていかれることをお勧めします。
2020年05月24日 12:42

20200523土曜日

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最近小泉八雲に関する記事を新聞で読んだ。実はわたくしは小泉八雲には非常に親近感を抱いている人間の一人ともいえる。なにしろ十代の頃小泉八雲の墓のある雑司ヶ谷墓地に行き、お墓参りを何回も重ねていた。何故かと言えば、母が常に菊池寛氏の奥様と親しくしていただいた時期があり、盆暮れに何かしらの贈答品を「奥様にこれをお届けしてきなさい」と青森から送られたリンゴを十個包んで渡された。そのようにリンゴを持って雑司ヶ谷墓地を通って菊池家に伺っていたことが毎年年末にあった。どうして雑司ヶ谷墓地と菊池家が関連があるかといえば、当時菊池家のお屋敷は旅館のような大きな建物が二軒あり、一方は菊池寛先生の書斎、一方は菊池家のご家族のお屋敷であった。わたしたち家族は戦時中お屋敷に同居させていただいていた時期もあった。母が菊池家に何かを届けさせるために、わたしが使いに出されていたのだ。そしてその当時十代で怖さを知らないわたしは平気で暗い墓地を通って(菊池家は墓地の近くにお屋敷がある)行かねばならず、その度に墓地を歩く楽しみを覚えた。当時平気で「わたし墓地歩くの好き」などと言っていた。多分まだ幽霊とか存在しているかしていないか不明の生き物の存在を深く知らなかったためだろう。その墓地で小泉八雲の墓を発見して、通過する度に手を合わせていた。後に明治の歴史的人物もそこに墓があることが判った。有名な小栗上野介である。そのため通過する度に小泉八雲と小栗上野介の墓で手を合わせた。その後大川橋蔵の墓も夏目漱石の墓もあることが判った。今回はお墓の話だけになったが、人間どこでどう繋がりが出てくるか、長い間生きていると不思議なご縁を感じることもある。小泉八雲が日本にいた時代に彼が世界に日本のことを発信していたのだが、その事実はまだ広く知られていなかった。かなり時間が経ってからその事実が判明したようだ。別な機会に小泉八雲のことを書きたいと思う。
2020年05月23日 17:55

20200522金曜日

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実を言えばインターネットに店を持つことになった。BASEという組織の中にかなりの数の人が店を出していて、それぞれ何か販売しているらしい。まだ入会したばかりで右も左も判らずウロウロチョロチョロしている。そのうち何とかなるだろう、とあまり焦らず取り組むことにしている。BASEの中にログインして、takamoriclubと記入すれば見ることだけは見られる。だまだがまだ開店前なので、そのうち華々しく披露できるまで、ゆっくりと取り組むことにしているのだが、それがいつになるか不明。なにしろパソコン自体も覚える時は、早く覚えるというよりは、あたかも新しい自転車を買った時のように乗って少しづつ覚える方が良いと思っている。すぐ一日で何でも出来るような器用さは全くない。自身は結構せっかちだが、こういうことはヨチヨチしているうちに覚えるのが最適だと思っている。ところでこの前運転免許証を返納したのだが、良く考えるともう少しもっているべきだった、と「早く返納しすぎた」と思っている。だが新聞で老人が事故を起こしたなどで騒がれていたのをみて、その度に早く返して良かったとも思う。このインターネット内のお店だが、どう転んでも車と違って事故は起こらないし心配はする必要もない。というわけでわたしが描いたCG作や裸婦のスケッチなどを展示して販売することにしている。どうぞよろしくお願い致します。
 
2020年05月22日 17:56

20200521木曜日part2

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今日は二回も書くことになった。別に大した理由もないが、飼っている猫のことで書くことがある。猫は約2年前にたまたまうちの前のブロックの塀に登って歩いているのをみかけた。可愛いので家にあった猫でも食べられるものを皿にのせて出したら、ぺろりと食べてくれた。次の日も同じように来て何か食べるものを出したら、その次の日も来た。三日目になったら「わたしここ気に入ったのでよろしくお願いいたします」というかのようにうちにいてくれた。それでうちの猫になってしまった。あまりにもナツクのが早かったのでそれでナツキと付けた。知人にナツキという人がいるが、その人には知らせられない。猫に自分の名前がついていたらいい気分がする人は猫好きかも。ナツキがうちの猫になってからもう二年近くなる。その間にわたしが入院したこともあり、彼女がやや苦労した時期もある。最近では本当にうちの猫になりきっている。ただし彼女には身体的に問題がある。猫なのに「ニャー」と鳴かない。つまり身体障害猫なのだ。わたしは気が付かなかったが、相棒が「あの子はオシだよ」と言った。猫の性が判らなかったが相棒が「あの子はメスだ」と調べて教えてくれた。そんなわけでナツキちゃんは相変わらずわたしの猫のままでいてくれるが、今回コロナ騒動で世間がうるさくなり、彼女も情緒不安定らしくわたしのそばにきては、うるさくつきまとう。あまりにもうるさいので階段の下まで連れて行きあがってきなさい、と命じた。何故なら彼女がかなりぶっとくなり、ある意味身体的にヤバイ肥り方をしている。それで痩せさせたいために運動をさせたいのだが、それがうまくいかない。近所に過去に30匹猫を飼っていた方がおられるので、今度教えてもらうつもりだ。毎回抱き寄せ「お前は長生きしておくれ、一緒に死のうね」などよからぬことを耳に囁いている。ナツキは鳴かない猫だが気持ちは通じている賢い猫だ。
2020年05月21日 18:29

20200521木曜日

母は俳句を作るのを楽しみの一つにしていた。その当時有名だった女性の俳句界の大人物の会が定期的にあり、母は常にその会に出席することを誇りにしていた。その当時の母の俳句は手元にある。莫大な数の俳句を遺している。「かなかなや、遊覧船も帰り来ぬ」などたくさんの俳句を遺していたので、わたしも真似をして作っていたこともある。当時の拙い俳句がのこっているが、その頃は、一日に五十句も百句近くも作っていた。そうした大量生産が次第に自分でもいやになり、次第に遠ざかってしまった。母は亡くなるまで作っていたと思う。しかし俳句も短歌もわたしにはさほど心に響かず、小説を書く方向に向かっていた。母が生きていた時代に、母から譲り受けたものは、無形のものが多いが、母がわたしに言ったことで今でもありがたいと思っている言葉がある。「何でも興味を持つのは良いけど、一度手にしたことは絶対生涯離さないこと」この言葉が現在のわたしの宝になっている。母の遺してくれたものは数々あるが、この言葉が一番わたしを満たされた気分にさせている。そういえば母に尋ねられた言葉がある。わたしが結婚しても子を作らないと決めたのを、母が知り述べた言葉だ。「それは狡いよ。母親の子を思う気持ちを知らないで人生を生きるのは」今でもその言葉を思い出すが子を作らなかったことを悔いたことはない。理由は、おそらく気性の激しいわたしは、子育てに激しい感情を抱き、自分で子を殺しかねないと危惧していたことに「在る」と思う。
2020年05月21日 16:57

20200521木曜日

昨日父のことを書いたので今日は母のことを書こうと思う。父母を比べてどちらか好きかと言われると父よりも母を大好きだった。何故ならわたしを受け入れてくれたから。なにしろ父母が離婚した後、兄三人とわたしの四人は(特にわたしは)どちらにつくかで迷った。というのも父派と母派と別れてしまったためだ。父は練馬に、母は大塚に。そして父に引き取られたわたしは母の家と父の家とを往復していた。朝学校の教科書をかばんに入れて練馬の家を出て、学校にゆく。帰りに母の家に行き過ごす。母のところはアパートを一軒買ったばかりで、まだ何もなかった。四畳半と三畳の部屋が全部で十。四畳半にはガス水道がそれぞれついていて、自炊ができる独り者用の部屋ばかり。そこの一室の母のところに転がり込んだ。母は配偶者に娘の養育費を請求して拒否され、わたしの存在は迷惑だったみたい。だがおそらく母は別居後わたしの存在でいくらか明るい暮らしになったようだ。父に養育費を拒否されたわたしは母から「お父さんのところから米をもってきなさい」と言われスゴスゴと練馬に。あの時お米を風呂敷に入れているところを帰ってきた父に目撃された。父は黙ってその場からいなくなった。その後練馬の電車の踏切りのところで、ここに飛び込みたいと思ったほどショックだった。あの時から母を恨んでいた。あのような恥ずかしいことしたくないと思っていた。しかし母が米をもってこいとは二度と言わなかったのは良かったかも。父母の内どちらが好きかと問われたらどちらも同じと今は答えられる。今でも思い出すアパートの人にうるさいといわれるといけないので、雨戸をきっちりと閉めて母と二人で歌謡曲を一緒に歌って、二人で美空ひばりの歌などを高らかに歌っていた母とわたし。あの当時を思い出すと母が父から解放された喜びを鮮明に思い出す。今から六十年前の話だ。
2020年05月21日 08:39

20200520水曜日

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このところ昔のことを思い出すことが多い。時々自身の仕事場の中の雑然とした光景に内心茫然として、なんとかしなきゃ、と思ったのが過去を思い出す結果につながったといえる。実をいえば父が挿絵画家であったために父の流儀ですべてが回っていた。とはいえ父が暴君であったとは思わない。今思えば昭和の時代に生きていた全く普通の男性であったと思える。父のことをざっと説明すると、二十代の初めころ名古屋から東京に出てきた。目的は挿絵画家になるためだった。それも文豪菊池寛氏にはなっからめがけて突進したともいえる。当時の菊池寛氏は非常に面倒見の良い文豪であったようで、文芸春秋社の前で待ち伏せしていた無名の父を即座に受け入れ「また作品できたら見せに来なさい」と述べたという。ラッキーな父はせっせと描いては持参し、先生に接近し続けた。その後菊池氏と将棋の話になり、大いに盛り上がり先生の将棋の対戦相手になってしまった。これが父の出世の契機となったわけ。将棋ができなければ出世はできなかったかも。父はその後召集令状が来て広島の隣の呉で他の戦友と共に原爆を目撃した。そのような稀有な紆余曲折があり、父が後に花形挿絵画家になり、なおかつ戦後は少女小説の挿絵を描き全国的に少女のファンが増えた。改めて考えると父は数多くの戦死者を出した戦争にも関わらず、生き残ってきたと感心した。生きているうちは大嫌いな父だったが、亡くなった時は一週間も泣いていた。母が亡くなった時は一滴も涙を流さなかったのに何故か不明。あの世で母が「何故なの!」と怒っているかもしれない。今思うと父を疎んだわたしは後悔している。結婚した後、わたしはようやく父のことが理解できたのだ。何故部屋の中の雑然から父を思い出したかと言えば、父が仕事をしている間は絶対家族はそばによれず、なおかつ部屋の書類一枚も動かすことを許されなかったからだ。今では死んだ後でも父を理解できたことは幸せなことと受け止めている。父が「父の日」に会いに来た時の笑顔は、今でも忘れない。なにしろ家の中で笑った顔をしたことの全くない父だったから。
2020年05月20日 12:12

20200518

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20200518
本日は画像のみにいたします。
理由は特にありませんが、時々画像を入れてみるのも良いかもしれないと思うようになりました。この画像は約三十年前に描いたもので、古い絵で申し訳ないのですが、自信のCGを最近販売するという「気に少しだけなった」のもあります。以前某人物が画像を見ていただいたところ、即座にこれらを買います、と言われたのです。その時には全く販売する気がなかったというか、自身のCGを売るという発想がなかったのです。つまり自身の作品を売るというのは何かそこはかとなく寂しいというか、何故か子供を他人に渡すような気分のようで、罪悪感があったのではないか、と今思います。というわけで現在その気分はないので、ただ単にご覧いただきたいと思っております。どうぞよろしくお願い致します。
 
2020年05月18日 10:57
2020年05月12日 18:16

20200511月曜日

 

最近箱根の重要文化財に落書きをした者がいるとのニュースを観た。以前から落書きには自身の特別な見方があり、あれそのものは性的欲求不満の最たるものである、と観ていた。中学生か高校生か学校の成績がイマイチ不十分でどこにも胸をはれる要素をもたない子たちのなれの果てがあの落書きに集結している。どういうわけか一度ペンキで描いて回ると何故か世の中に良いことをしたような気分が起きているためか、後を断たない。彼らに何をすべきか?まず第一ペンキを売る店に貼り紙をしてもらう。「これらのペンキはイタズラ目的に使用できません。またイタズラ目的に使用すれば、重要文化財の場合は五年以下の懲役、十年以下の懲役などの重い犯罪になります。将来あなた方は立派な経歴の大人になる予定でもありますので一時的な気の迷いでこれらのペンキをきちんとした目的もない無謀なイタズラのために使用をしないようにお願いいたします。イタズラは立派な犯罪で窃盗や殺人にも繋がる犯罪ですので、将来ある皆さんご自身のためにこれらのペンキを使用しないようにご留意ください」と記した紙を貼り出すべきです。以前からこうした貼り紙を用意し出しておけば、おそらく数パーセント効果があったと思える。どうかダメでも一度こうした貼り紙を店に協力を仰ぎ、出してはいかがでしょうか?自身が母親であれば、店の前に立って、未成年の場合は話しかけ、会話の中からペンキの用途を聞き出し、犯罪を停めることが出来ると思っていた。ぜひ実現してください。

2020年05月11日 07:03