高杜 一榮の世界

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024s

モノローグ

20200911金曜日

最近昔の思い出をまるでビロードの布を触っているような具合に思い出す。過去は思い出せば、きちんと脳に戻ってくる。だがその思い出は当時の感情や感覚であって、過去だからとはいえ、自身の過去ではなく、古き時代の映画を見ているように、自身のものであって、自身のものではない「よそよそしさ」「無感動」「あなたって馬鹿ね」などの言葉が当てはまるような記憶。例えば自身の若さゆえの感情が「あの時、あんな感じだったのか?」と今ではどうでもよいことを、何故そういう行動に出たのか?と思い出す。実はある男性と単なる友人としてつきあっていた。だがその男性は地方に就職して東京にいなくなった。ある時、思い立って会いに行こう、と決意した。その男性とはただの友人だったが、一応美男子の部類に入る男性で高学歴で性格は優しく、正義感が溢れている風ではないが、とにかくただの友人の一人だった。だが地方に行った彼に会うために出掛けた。母はその人物を知っていたので、わたしにその旅行を許してくれた。実は母はその人物とのわたしの交際に乗り気ではなかった。理由はある意味その人物が親戚関係に近い関係であったためだ。彼は現地で会ってくれたが、車の中で話すだけで、どこにも行こうともせず、ただ一昼夜車の中だけで過ごした。不思議なことに彼に対しては、この惚れっぽいわたしには異例中の異例でそれほど惚れてもいなかった。だから平然と会いに出掛けたのだが、後で考えると彼は会話の中に重要な言葉を残していたのを、最近になって思い出した。彼の言葉の中に私に対する印象を短い言葉でもらしていたのだ。だがその言葉がいかなるものであったのか、思い出さない。ただいつもと異なる雰囲気で短い言葉で呟いた言葉だった。何事もなく明け方まで車の中で話しただけで帰宅した。母は何も言わず男性の名前も顔も見たこともあったのだが、何一つ質問しなかった。多分母は「娘には何も起こらなかった」と読んでいたらしい。それから小説で受賞した後、彼に会ったら「おめでとう」と言ってくれた。その後わたしが官能小説に近い分野の類を書いたこともあるのを、知ったらしくまた再会した。だが何も言わなかった。相変わらず二人の間に何もなかった。それ以後彼は結婚したらしく年賀状を送り合う仲だった。その後ブラジルの近くのある街で仕事をし、数年して日本に戻ってきた。彼とは何事もなかったのだが、何故そうなったか、後で判った。とにかく母も知っている遠縁に近い人物だったので、お互いの距離が近かったために、それ以上になる条件が揃わなかった。これが原因だったと最近になって思う。大好きで惚れていれば、おそらく関係は成立したはずだが、彼も私も未経験の二人が永遠に結ばれなかったのは意外に条件が揃いすぎていたためだったのではないか。彼がわたしを好きであったのか否か?の疑問は残るが、未だに判らない。
2020年09月11日 10:21

20200903木曜日

人生生きにくくなった、と最近特に思う。というのも普通の暮らしをしていても、自身の暮らしを守るためのツールが必要で、それなしには暮らせないシステムにいつの間にかなっている。例えば通販で買い物をする時に、名前、生年月日、住所、ID、そしてそのためのパスワードが必要。いったんそのシステムに入会すれば、パスワードなしには絶対入れないし無くしたら再度最初からやり直さねばならない。例えば三か月ほどパソコンから遠ざかっていると、周囲の環境が代わり、何故か居心地が悪い。常に若い脳を維持していないと環境についていけなくなるようだ。そんなわけで、数年前友人にパソコン生活を勧めた際、「しない!」と言われたことを思い出した。その時、そのような現代的な環境に抵抗していては生きていられないと思ったが、何時の間にか「パソコン辞めてみよう」などとほとんど時代に逆行した気分になっていた。脳の疲労?人生の疲労、自身に対する疲労?ならべてみても周囲が真っ白の壁になってそそり立つ。しかしどういうわけか、先天的に反逆精神があるらしく、物凄い抵抗を頑丈な岩のごとく自身に対して向けている。自身との闘いとは格好良すぎだけど当面これがわたしのライフワーク。ともあれパソコンを日本に導入したのが私自身であるので、あまり威勢の良いことはいえない。(日本経済新聞にその記録は遺っている)自業自得という言葉に当てはまらないが、数%当たっている。
2020年09月03日 09:36

20200901part 2

以下の文章は2015年11月20に掲載した自身の文章である。
何故昔の文章を再度載せたかといえば、以前自身の書いた文章を思い出し、何故か再度読んでいただきたく思った次第です。
151120
どうやら人間は苛めあって生きる生き物かも。この前マタハラが気になってしょうがないので、書いてしまったが、どうして妊娠中の女性の地位を復職するまで維持してあげない、のだろう、と気になった。男性側がそうしたハラスメントを作り上げているってことなのか?自身は子供を最初から作らないことにしていたので、子はない。理由は結局当時の妊娠出産、そして乳幼児保育の体制が完成されていなかったことにある。つまり現在ほど妊婦さんに便利で楽な体制ではなかったことにある。そうした体制の中で子を作ってなおかつ働くって大変なことであったはず。わたしは逆にハラスメントがあったという風に捉えている。つまり妊婦になるのを躊躇する体制だったから、産まなかったというのが正しい。男性側は産みたい奴は勝手に産め、という姿勢だったはずで、なおかつ産んだら、お前が産んだんだからすべて子育ては全部やれ、という対応だった。(と思う)元夫は亡くなっていないが、あの当時、夫側は多忙で、もし妻が妊娠しても手を差し伸べることも不可能だったはずだ。お互い気楽な共働き体制にして、働いて得た給料をお互い勝手に使うような暮らしだった。当時毛皮のコートを冬が来るたびに新たに買っていたし、計画性もなくローンで住まいを次々買ってしまった。一時は家が四軒もあった。良く買い込んだものだ。しかしバブルがはじける頃には残っているものは何もないような印象。その後はいろいろあって、秋風が。。。という感じになった。つまり家で壊れたカップルともいえる。しかし懐かしい、蕨のマンション、大宮の一戸建て、六本木のワンルームなどなど。つわもの共の夢の跡って感じでしょう。以上ですが、かなり過去に家を買い、またそれを売ってマンションを買い、結局今は母から頂いた家に住んでいるわけだが、人間は何故家や土地に執着するのか、自身でも解らない。しかし現在はあちらこちらに移転を繰り返したが、結局残ったのは母から頂いた家と土地だけ。土地は横浜と熱海にある。どういうわけか兄が土地を買うのが好きで、一度北海道の美瑛(確かこういう名だったと思う)に土地を買い、その後不動産屋から再度その土地を売ってくれと言われ、買ったときの値段で売ってしまった、という。それを聞いて金銭に執着してはいけない、という親の教育がそういう兄を作ったのではないか、と思い出した。つまり本当に得をしたいと思う血筋ではない、ということだ。土地をあちこちに持っても売れもしないし、役立たない。横浜は警察の射撃訓練場のそばにあり、熱海は新幹線の三島駅から30分ぐらいのところに在る。これをいつか生かしたいと思う。
2020年09月01日 11:38

20200901火曜日

最近気になったことは、農家で真面目に一生懸命作っていた野菜などが真夜中に泥棒が忍び込み収穫直前にほとんど刈り取られ盗まれた事件。テレビで知り、物凄く怒りが湧いた。農家の真面目な人々の汗と涙の作物を全部盗んでゆくという許せない行為。自身は農家に出かけて、真夜中にその泥棒を捕まえようと、考えた。考えたが、行かなかったのはおそらく農家の人々は、こういうお節介によって新たな事件が起きたら、その方がより怖いと思われるかもしれない。勇気をもって出てゆく余計なお世話を、それほど歓迎されないと踏んだのは賢明だったかも。しかしこういう無分別の正義感は誰に似たのだろう?不思議。誰に似たにせよ、誰もが考えないし、おそらく「可哀想」「気の毒に」で終わるのだろうと予想されることに激しい怒りとともに行動をしようとたちがありかけているわたし。何故こういうお節介をしたがり、出て行って助けたいと思うのか?不思議。ともかく他人が栽培した野菜や果物を盗むのは普通の窃盗よりも、思い重罪にすべき、と思う。こういう犯罪を是非即刻やめていただきたい。農作物やメロンなどの果物を窃盗する方に一言言いたい。「あなたの行為は未来にあなたの愛する人々を傷つけるはず、即刻やめるべきです」
 
2020年09月01日 08:05

20200827木曜日

今朝たまたま芋の種類に男爵芋とあるが、いつ誰が命名したのだろうか?と気になった。インターネットで調べてみたら明治41年に川田龍吉男爵がイギリスに留学した際初めてジャガイモの料理を食した。その際に「これは日本にはないもの、自分が日本で同じ芋を作ってみたい」と思ったのが切っ掛けだという。なるほど川田氏が男爵であったので、男爵イモになったのだろう。彼が貴族の地位にいなかったら、男爵芋ではなく、川田芋かまたは龍吉芋になっていたかもしれない。しかしながら野菜やその他の樹木などに個人の名前を付ける習慣はいわゆるインパクトがあるなしに左右するので、面白い。自身がもし珍しい果物に出会って感動し、名付け親になって欲しい、と言われたら、絶対断らないで受けよう!と思う。野菜や花の名前に「カズエコ」と命名してそれが終世遺ってゆくとしたら面白いかも。そういえば男爵芋に出合ってから数十年して、その意味を今知った。好奇心を持ち続けると楽しい。
 
2020年08月27日 09:42

20200820木曜日

八月の終戦の日になると必ず壮絶で過酷な敗戦までの日々の記憶を打ち明け、今まで兵士たちの実情を知らなかった人々は実情を聞いて「そんなご苦労があったとは知らなかった」という気持ちになるらしい。多くの召集令状を受け取った経験者またはその周辺の人々は少しづつ打ち明けてくれるようになったと覗える。召集され外地に行き敗戦になり、現地に残された人々やその子孫たちが、今まで口を閉ざしていたが、「自由に発言できる時代になった」ということで新聞にエピソードを伝えている。ある時、知人で心おきなく話せる人に、戦争の話をしていて、自身はすっかり慎重さを忘れて口走ってしまった。「今の時代ありえないけども、もし男性として生まれ、戦争になり徴兵されることになったら、勇ましく一兵卒として出てゆく」そういう言葉を吐くとは思わなかった先方は、驚いてその後付き合いをやめたいらしく遠ざかってしまった。かなり軽率な発言だったが、わたしにはわたしの「思い」がある。確かに戦争はいけない。しかしもしよんどころなくそういう戦争勃発の機会が訪れたらやっはり、戦争なんて行きたくない家にいたいなどと平然と言えるだろうか?と思えた。そのための発言になった。しかし「戦争に行きます」という言葉そのものが、嫌われたらしい。だが、100名が100名全部戦争を嫌い、行かない、となったら、誰が国家を守るのか?誰だって辛い兵隊生活など自ら望まないはず。嫌われたのは理解できるが、国家を守る責任というのは国民一人一人に在るべきではないのか?戦争を嫌うのは好き勝手だが、国を守るという意志は一人一人持っているべき、と思う。これから本当に戦争が起きたら、以前の類の戦争ではなく、これ以上ないほど過酷で、勝敗はすぐ付くはず。そのため戦争回避の妙案を持てる人間の育成を希望する。
2020年08月20日 10:09

20200819水曜日

ところで最近気になっているのは、携帯やインターネットでのPRマナー。どうも紙の媒体では気にならなかった広告や宣伝形態が変わったと感じた。強引でほとんど髪を振り乱したマナーが気になった。メールアドレスを持っていると、必ずどこからか見知らぬ他人が「こんにちは」「元気ー?」とほとんど古くからの友人のごとく割り込んでくる。知らんふりしていても、毎日執拗なほどのCMメールが送られて来る。そのうちまるで自身のHPに顔を出し、傍若無人なふるまいをしそうで困る。彼らの正体はテレビでふんだんに流されているCMとほぼ同じで全く礼儀作法がイマイチ半端。多分自分たちの目的が済めば満足なのだろう。つまり昔ながらのほぼ大人しい広告とは全く違う。名前を売るためには、裸になって踊る芸人のような具合。(裸になって踊る芸人たちを謗るわけではないが)それが面白いと思えば良いが、大抵センスはない。しかし生活が懸かっているのだから、事情を汲んであげねばならない。最近莫大に送られていたメールが半分になった。それというのも数多く保持していたメールアドレスを半分にしたためだ。毎日莫大なメールがほぼ半分以下になって少し楽になった。確かに商売に熱心であることは判るが、誰でもいきなり玄関から入ってきてダイニングのテーブルの上にあぐらかいて寝ているのと同じ振る舞いは困る。そういえばインターネット世界になってから礼儀というものが変わったのかもしれない。インターネット世界の礼儀作法を問題にし喝を与える者の出現を期待したい。
2020年08月19日 07:49

20200817月曜日

数年前芸能人であるSMAPのメンバーであった歌手が個展を開いていたことがあった。あの時はSMAPの組織改革のための行動だと理解した。皆それぞれ事情があるから他分野に興味をもつのだろう、と考えた。今回池袋の街を歩いていたら、 画廊ができていて偶然通りかかったところ某有名コメディアンの個展だった。感想と言えば、思ったことしか書けない。なにしろ芸能人は一つの分野で成功したら他の分野で活躍したがる、と感じたこと。今回某氏の個展を観てなるほどと感心した。やはり芸能界の人々の一人らしく華やかに絵画の分野に出てきた。実は本音を言えば、皆一分野で成功すると、自身の世界を広げたがるってこと。人のことは「あーだこーだ」言いたくないが、言わねばならない気分になっている。絵画の分野は父が挿絵画家で成功したために、絵の分野は一応尊敬のまなざしで見ているのだが、某氏の作品はどうみても納得がいかなかった。つまりすでに名前があるから成功すると踏んでいてその域をでていないように感じた。ピカソも他の有名な画家も売れないうちは、七転八倒の思いで情熱をもって売っている。それは良いが名前がすでに知れ渡っている者が新しい分野で売り出す時のマナーってないのか?と思う。正直言えば某氏の絵はご自身の名前が聞こえているので、売れると踏んで描いたという意図が現れすぎていると感じた。ゴッホが苦しんだように、売れない時期に大変な思いをした例もある。モジリアニのように最後に死んでから画商に叩かれ妻によって安売りされた例もある。純粋な魂があるのを感じれば、理解できるのだがあれは絵ではない、という絵も出てくる。ともあれ猫も杓子も皆絵を描く時代になって何年だろう?そしてまるで振り返りもされなかった絵が突如としてキラキラと輝いてしまうこともあるので、本道を行く画家たちが苦虫を噛み潰しているのが気になる。
2020年08月17日 15:51

20200812水曜日

先日産経新聞に、天皇陛下と元兵士の間の数年前の逸話が書かれていた。2016年1月28日に陛下はフィリピンを訪問した際、元兵士で現地で暮らしている日本人と出会った。天皇陛下が高齢の元兵士に近寄り、「大変困難があったでしょうが、皆さんを誇りに思います」との言葉を述べられたという。日本からフィリピンに陛下が立ち寄られる予定は、おそらくその際の遭遇の場を設定した人物がいるのだろう。兵士たちはまさか天皇陛下が直に会話をしてくださるとは想像できなかったに違いない。天皇陛下が在フィリピンの残留日本兵と会話が成り立つとは思わなかったかもしれない。陛下からの言葉が耳から入り、兵士たちは自分たちの人生が肯定されたと思い、長い間貯めこんだ涙を浮かべたのではないのか。長年の苦難や屈託を胸の中で消すことができた、ということになる。その文を読んで何故か元兵士ではないわたしは、涙がこぼれた。自身と全く立場も違うし、縁もない方々だが、陛下の言葉で長い間の鬱積した思いが一度に出口にほとばしり出た・・・。奇妙だが自分は日本人なのだ、と思えた瞬間だった。
2020年08月12日 13:36

20200808土曜日

母が亡くなった年に次第に近づくに連れ、年取った母の人生に対する姿勢と、自分の今の生き方を比べるようになった。母は常に向学心旺盛な女性で、年を取ってから中村汀女氏の俳句の会の会員になり、毎月俳句をひねり、師の教えを受けていた。俳句を作って出席すると優れた俳句は読み上げられ、はがきには先生の批評が書かれて戻ってきた。今でも母の俳句の載った冊子や批評の書かれたはがきが本棚に在る。彼女の向学心は本当に真摯で粘り強く、真面目に頑張っていたことを思い出す。わたしは母を真似て俳句を作ったが、二日で百に近い俳句を作ってしまい、その自分の脳と時間の浪費にやや辟易し、やめてしまった。あの頃から俳句続けていたら、少しは自分でも満足できるものが創れたかもしれない。何事も欲と見栄がからむと自身に不満を持つ結果になると、思える。人間はある程度技能を習得すると、その技能を認めて欲しいという欲を持つものらしい。無心で山下清氏のごとく技を磨くべきだと思える。その純粋なる美しい無心を持てるのはいつなのか?もう遅いのかも。
2020年08月08日 09:54