高杜 一榮の世界

WELCOME TO TAKAMORI COLLECTION

高杜 一榮の世界 ≫ フランスに指導された日本の航空技術

フランス遣日航空教育軍事使節団第3部(前編後編)

第3部(前編)使節団の仕事
(大正7—9年)

フランス政府が、外務省を通じ「航空教育使節団を日本政府の手にゆだねる」と提案してきたのは、1918年8月21日のことである。
交渉はパリで日本大使館付武官永井来大佐とフランス陸海軍航空補佐官との間で行われた。
総理大臣兼陸軍大臣ジョルジュ・クレマンソー((1841-1929)はこの案件を日本とアジアにおけるフランスの国益にとって最重要事項とみなし、陸軍参謀長とともに交渉を監督した。
陸軍参謀長が航空補佐官に宛てた1918年8月26日付覚書にはこう記されている。
「日本の駐在武官が我々の提案を受け入れると知らせてきた。(中略)
使節団の指揮はフォール中佐が執り(中略)同将校が航空補佐官および日本の駐在武官とともに部下の人選を行う。(中略)補佐官におかれては人選リストが決まり次第、これを陸軍参謀長に提出されたし(中略)
また、日本政府は上記軍人以外に航空機製造技師または専門家も使節団に加えてほしいとの意向を表明している。」

ジョルジュ・クレマンソーは1918年8月21日付公電に以下のように記している:
「フランス政府は使節団団員の俸給、生活費、旅費の一切を負担する。
(中略)
フォール中佐を長とするこの使節団は必ずや良好な条件で任務を遂行するであろう。」
使節団の責任者の人選はその専門知識、権威を考慮の上、ジョルジュ・クレマンソーが直々に行った。使節団を自費で派遣するにあたり、フランス政府はイタリア人、イギリス人、アメリカ人を除外した。
また見返りとして日本がフランスに軍用飛行機を多数発注することを希望した。
フォール中佐は1918年8月25日付で「フランス遣日航空教育軍事使節団団長」に正式に任務され、同年9月初めに陸海軍航空補佐官房の臨時執務室に着任し、使節団の準備に専念することとなる。

軍事航空技術の草分け

フォール大佐
ジャック(アンヌ・マリー・ヴァンサン・ポール)フォールは1869年11月14日、ピュイ・ド・ドーム県クレルモン・フェランに生まれる。

1887年9月、陸軍に志願し3年間の期限で入隊する。

1889年10月21日、エコール・ポリテクニック(理工科学校)に合格し、

1890年10月5日、砲工兵技術応用学校の士官生徒となる。

1891年9月30日、少尉に任官され、一年後、第13砲兵連隊の砲兵科見習士官として軍人のキャリアを歩み始める。

1893年9月30日、中尉に昇進し、1894年10月1日、第12砲兵連隊に入隊、1903年3月までに同任に当たる。

同年4月9日に第9砲兵連隊長に昇進している。4年後、陸軍第1大隊参謀本部に転属となり、第15砲兵連隊に配属される。航空技術に熱中し、1912年9月24日、軍事航空局に入り、1914年3月23日、飛行中隊長となり、1914年8月シャロン・シュル・マルヌ陸軍参謀本部にて第一次世界大戦の開戦を迎える。

1915年10月2日、航空補佐官房に入り、1917年6月6日、第207砲兵連隊にて中佐に昇進、同年9月からは第4軍第60師団野戦砲兵部隊の指揮を執る。

1918年8月25日、フランス遣日航空教育軍事使節団団長に任命される。日本滞在中の1919年9月13日に大佐に昇進。

フランス帰国後の1920年9月、航空特別参謀付属の航空技術検査局長に任命される。

1922年11月9日、メス日中爆撃旅団の臨時司令官となり、翌年准将に昇進し、第11をメス日中爆撃旅団を指揮する。しかしパリのヴァル・ド・グラス病院に急遽入院し、1924年8月24日に死去。

1915年には軍功勲章と武勲によるレジオンドヌール4等勲章を、1924年7月24日には同3等勲章を叙せられ、フォール准将は「その職能と技能、一般知識および軍事知識により、常に時節の要求に応える効率性を航空業務にもたらす術を心得ていた」と評される。
外国の軍隊への功労によりスペイン、イギリス、ロシア、イタリア、ベルギー、セルビアより叙勲され、日本は彼に勲三等瑞宝章と勲三等旭日章を授けた。

彼の葬儀は1924年8月27日、ヴァル・ド・グラス礼拝堂で大勢の軍および航空関係者列席のもと執り行われた。参列者の中には、新任のパリ駐在武官、大平善市陸軍中将(当時少将)1919年4月から1921年12月まで在東京フランス大使の任にあったエドモン・バプストらの顔があった。
亡骸はクレルモン・フェランの墓地に埋葬された。