高杜 一榮の世界

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高杜 一榮の世界 ≫ 日仏外交史写真館

日仏外交史に登場する人物

ナポレオン三世皇帝

皇帝ナポレオン三世
ナポレオン三世(1808ー1873)
ヨーロッパにおける蚕の全滅以降、日本との蚕と生糸の貿易を考慮し、ロッシュ公使を派遣した。当時五十代。ロッシュ公使と十四代将軍家茂を結びつけたのは宣教師のカション。その後日仏外交が極秘に開始された。極秘外交は不文律の相互支援、フランスは蚕と生糸の占有、幕府は近代的技術の導入と軍事改革を条件とする。この極秘外交は1900年代まで継続された。
家茂薨去の後は、十五代将軍慶喜の弟昭武がフランスを訪問し、皇帝と皇后に謁見し、パリ万博にも臨席した。その後、パリ留学生活に入っている。フランス第三帝国が崩壊すると同時期に徳川幕府も崩壊した。日本との蚕輸入が成功し、後にパリがファッションの街として世界的に名を馳せる基因となったのは、皇帝の「日本で絹を確保せよ」の指令であった。

メルメ・カション 

メルメ・カション 
1855年に琉球に上陸、日本語を学び、函館に移り、函館奉行の栗本鋤雲と出逢った。カションは栗本に仏語を、栗本は日本語を教えあった。両国語ばかりでなく日本とフランスの文化などあらゆる分野の学問をお互い学習し合う。その後カションは横浜で外国奉行となった栗本と再会し、後の日仏通商条約はこの二人の結びつきの賜物。日仏通商条約やロッシュ公使の信任状の際の日本語の文面は全部カタカナで書かれ、極小の文字で書かれた文面が日本の外務省の外交史料に遺されている。ロッシュ公使の片腕となり、後に外交官になった。横須賀でフランス語伝習所を設立し初代校長に収まり、その後優秀な卒業生にナポレオン三世からの賞状を授与している。お梶と所帯を持っていたが、お梶に死なれて失意のうちに日本を去る。カションは帰国後行方不明であったが、2009年頃に、ポラック氏の捜索の結果カションが帰国後フランス人と結婚し二児を設けており、末裔が生存していることが判明している。カションが日本語を書いて話し、日仏外交の極秘情報を握っていたため命を狙われていた可能性があり、身を隠していたのは明白であった。

カションのカタカナの委任状

カションによる和文の信任状
メルメ ・カションのカタカナの委任状。カションが琉球に上陸して後、必死に覚えた日本語、カタカナを一番早くたくさん書くためには、小さい文字で書くしかない、とカションが考え出したスタイルと見受ける。この委任状の原文は外務省外交史料館に保管されている。

栗本鋤雲

栗本鋤雲
栗本鋤雲(くりもとじょうん)
幕医の家系に生まれ、箱館奉行に任ぜられ、赴任後仏宣教師カションと出会う。カションからフランス語ならびにフランスの近代的科学技術や歴史などあらゆる知識を学習し、自身は幕府の成り立ちから歴史文化、ならびに俳句などをカションに指導する。その後横浜で行われた鎖港問題の会議場でカションと再会。日仏外交史の黎明期の土台を作り上げたのは栗本とカションといえる。幕府瓦解の知らせをパリで聞いた栗本は、カションの行く末を案じていた。栗本はパリ博覧会に幕府代表として列席し、「博覧会」の言葉のネーミングは栗本によって定着した。フランスと幕府の極秘外交を熟知している数少ない幕臣の一人。栗本と再会した後のカションはその後行方不明となった。カションの享年月日は2009年になるまで不明であった。

ロッシュ公使(左の人物)

レオンロッシュ 駐日フランス公使
ロッシュ公使(1864年~69年まで駐日外交官)チュニジアやアルジェリアなどの外交官としてのキャリアがあり、ナポレオン三世によって日本に派遣され蚕と生糸の占有を目的に日本に上陸。外交手腕を発揮し、蚕と生糸の占有契約を条件に幕府の軍事改革ならびに横須賀製鉄所の建設などを取り決めた。家茂とのお目見えが許されたことは、ロッシュが幕府側の役人に好かれたことが一因である。イギリス側と比べてロッシュの気さくな人柄が愛された。日仏外交を極秘にしていたのはロッシュ公使の作戦であった。イギリスのパークスが後に赴任して日仏外交が深く静かに潜行しているのを知られ、薩長がイギリスと結びつく遠因ともなった。幕府とフランスの相互支援は、フランスで蚕が生産されるようになるまで継続され、不文律で1900年代まで継続した。フランスが蚕を生産し、絹が生産されるようになってから、日本からの輸入はなくなる。
 

ベルクール公使

フランス公使ベルクール
初代駐日フランス公使 ベルクール。フランスの初代全権大使。横浜では英国側の事件である生麦事件の交渉で、ベルクールは親幕的な態勢をとった。1863年秋各国の公使が、横浜の鎖港を主張した際、ベルクールだけは理解を示し、横浜鎖港談判のための使節の派遣を支援した。鎖港問題とは、横浜を開港したが、幕府への風当たりなどを考慮すると鎖港をしなければ暴動も起こるやもしれない、と案じた為政者が考えたことだったが、外国側は前時代的だと非難した。
 

レオンス・ヴェルニ 

横須賀製鉄所所長 ヴェルニ
レオンス・ヴェルニ(1837-1908)1865年、ポリテクニック出身横須賀製鉄所の建設と管理経営を手掛ける。当初は総勢26名の技術者による近代的技術の指導は:製図、鋳造、錬鉄、鑓鑿技術、製缶、製帆船具、船工木工、潜水技術などの日本の近代化に不可欠の無数の技術と知識であった。その後横須賀製鉄所に派遣されたフランス人技術者は総数50名になる。

フランス軍事顧問団シャノワンヌ大尉(中央)と団員たち

フランス軍事顧問団 中央シャノワンヌ大尉
シャルル・シャノワンヌ大尉(1835-1915)
フランス遣日軍事顧問団団長。1867年シャノワンヌ大尉率いる総勢二十数名の軍事顧問団の教官が来日し指導にあたり、近代的軍服も徴兵制度もなかった幕兵の訓練を開始した。短期間で幕府に近代的な軍備を敷き、第二軍事顧問団まで派遣された。隊員のブリュネは後に榎本武揚率いる箱館戦争を支援した。後に日清戦争、日露戦争の際に的確な戦略を日本軍に進言しており、明治政府から叙勲された。

徳川慶喜

ナポレオン三世より賜った馬と乗馬服を着用した慶喜
家茂と共に、日仏外交を拓き、蚕の輸出を交換条件に横須賀製鉄所の建設などを実行した。シャノワンヌ大尉の軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、陸軍総裁海軍総裁などを設置した。ま実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣し、幕臣子弟の欧州留学も奨励した。ナポレオン三世から贈られたアラブ馬に乗った徳川慶喜。乗馬服も贈られていた。本来は家茂が着用するはずだったが、馬が到着する前に家茂はすでに夭逝していた。家茂の生前から将軍後見職にあった慶喜は、十五代将軍となったが、薩長の勢いには抗せず、朝廷に恭順を示すために大政奉還をした。

徳川慶喜の弟 昭武

フランスの新聞に掲載になった幕府のニュース
パリに留学した際の徳川昭武ーフランスの新聞「イリュストラッション」に掲載された。

徳川昭武
嘉永6年(1853年)生れる。禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣し、幼年ながらも幕末の動乱に参加した。第14代将軍徳川家茂の死去後、慶応2年(1867年)、徳川家を相続する。同時にパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられる。慶応3年1月(1867年2月)に使節団を率いて約50日をかけて渡仏し、ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。万博終了後パリにて留学生活を送る。慶応4年(1868年)1月に兄である15代将軍慶喜が大政奉還を行ったことを知り、逡巡があったが帰国。翌年には水戸徳川家を相続し、最後の水戸藩主に就任した。明治43年(1910年)7月3日に死去した。享年58歳。

アンリ・ペルグラン

ペルグラン
横浜の町にガス灯を設置し、横浜の町の繁栄に貢献したフランス人。
1870年上海のフランス租界にガス灯を設置する任にあった。横須賀製鉄所の所長であるヴェルニーとは同郷のペルグランは、ガス灯を設置する日本人高島嘉右衛門に出合い、月250円の給料で日本に招聘される。1872年10月末三百基のガス灯を横浜に設置した。横浜のガス灯は文明開花の象徴となった。

フォール大佐

フォール大佐
ジャック・フォールは1869年に生まれ、1889年ポリテクニックに合格、その後砲兵連隊の士官となり、軍人の道を歩む。1918年遣日航空教育軍事使節団団長に任命され、日本の航空教育指導に専心した。日本に滞在中に大佐に昇進。1915年レジオン・ドヌール勲章を叙せられる。航空軍事に効率性を常にもたらす術を心得ていたと欧州各国からも叙勲されている。
コアニェ
フランソワ・コアニエ
フランスロワールのサンテチェンヌ鉱山学校を1855年に卒業。
明治政府最初のお雇い外国人。1866年、薩摩藩の五代友厚とパリ博で出会い、それ以後薩摩の鉱業ならびに冶金産業の近代化に貢献する。九州の山ヶ野、四国の別子、兵庫県の生野などの鉱山開発のために、1872年生野に住居を定め、鉱山開発に乗り出し、生野にフランス人村ができる。コワニエの給料は月900円。日本人従業員の20倍でお雇い外国人の中でも最高額と言われた。現在生野鉱山の跡地は三菱グループの所有となっている。


ギュスターヴ・ボワソナード

ボワソナード
ボワソナード(1873-1895)
法制の整備に取りかかった明治政府はナポレオン法典を箕作麟祥に翻訳させていた。パリ大学法学部教授であったボワソナードは明治政府より法制度の近代化の任命を受ける。1873年日本に上陸。日本の司法省法学校と明治法律学校において講義を始めた。前者は後に東京帝国大学に編入され、後者は後の法政大学である。ボワソナードは民法典に五年を費やしたが、草案が出来てから日本語に翻訳されるまで時間がかかった。翻訳された後元老院の審査などもあり、公布されたのは1894年であった。明治政府の犯罪者の取り調べが江戸時代の石を膝にのせ自白させるというもので、目撃したボワソナードは法務省にその非人道的取り調べを早急に禁止するよう談判した。日本に人道主義を植え付けることが重要と、彼は厳しく指摘し続けた。