高杜 一榮の世界

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高杜 一榮の世界 ≫ 日本を愛した二人のフランス人

日本を愛した二人のフランス人

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『日本を愛した旅する画家』

『日本を愛した旅する画家』は日仏関係の研究者であるクリスチャン・ポラック氏によってまとめられ、フランス商工会議所(日本駐在)
の「FRANCE JAPON ECO 98」に掲載された一文である。
レガメーは明治期に来日し、日本文化や美術を挿絵に表現し、欧米に一早く報道した画家で、友人のギメと共に日仏関係を向上させた
アーティストである。
日本は明治大正昭和と軍国主義を育て、後に無謀な軍備で第二次世界大戦をも経験し、国民全体が辛酸をなめた。戦後敗戦国日本はデモ
クラシーで洗脳され、近代国家としての常識的な側面を培ったが、一方さまざまな面で伝統の良さを次第に失って行った。レガメーが存
命中であれば、日本の戦後の変貌に悲鳴をあげたであろう。本文を読み進むうちに、これほど日本を愛したフランス人がいたことに正直
驚いてしまった。

日本を愛したレガメーとギメの友情の美しき姿勢は日本にとって、また日本に失望した現代の若い人々にとっては、適切な道標となるだろう。
百年前の日本の良さ、素晴らしさをヨーロッパの人々に目覚めさせた二人を顕彰し、未来の世界のあり方について、考えてみたい。

多くの資料の中から、二人の業績を掘り起こし改めて日の眼を当てたポラック氏に大きな拍手を送ります。(高杜)

第一部 エミール・ギメと「憧れの国」へ

1876年、画家フェリックス・レガメーはリオンの実業家エミール・ギメに同行し世界一周の旅に出る。
8月26日、横浜に上陸したレガメーは、かねてよりの「憧れの国」を2ヶ月間探訪し、失われつつある古き良き日本の姿をスケッチや絵画でとらえたのである。

日本にすっかり心を奪われたレガメーは、死に至るその日まで日出ずる国日本の無条件の礼賛者であり続け、フランスに於けるジャポニズム(日本趣味)の
先駆者のひとりとなる。初来日から20年後、日本への情熱冷めやらぬレガメーは再び此の地を訪れるのである。

芸術一家

フェリックス・エリ・レガメーは1844年8月7日にパリに生まれた。母はフランスのロレーヌ地方出身、父ルイ・ピエール・ギヨム・レガメーはフランス人を両親に
1814年ジュネーヴに生まれた。
素版画、石版画、細密画家ルイ・ピエールは1832年ブザンソンの印刷所に職を得た彼は、そこで校正人を務めていたプルードン(1809年—1865年)と友情の絆を結ぶ。
この出会いを契機に、ルイ・ピエールは厳格な共和主義道義を自ら信条とし、これは生涯にわたり(パリにて1878年没)彼の指針となり、やがて3人の息子にも教え込まれることとなる。
1834年にはパリに居を移し、多色刷リトグラフィーの技法に改良を加え、地図製版や古い写本挿画の複製などにも応用できるようにする。『キリストに倣いて』や『福音書』(キュルメール刊)のために、見事な装飾図版やリトグラフィーを制作している。
1836年、ルイ・ピエールは結婚し、第一子ギヨム・ガレー(1837-1875)が生まれる。父の薫陶の下、戦争画を専門とする油彩画、素描画家となる。代表作としては、『国民軍機甲部隊工兵』(1864年)や『マジェンタの旗』(1867年)といった絵画を遺しており、他にも版画化され人気を博した作品が数多くある。また英国の週刊新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』にも作品を寄せている。
1875年のギヨムの早世は二人の弟たちには深い悲しみをもたらす。末弟フレデリック(1849−1925)は二人の兄たちに倣って素描画、エッチング画、多色刷石版画家となる。
1873年、フレデリック・レガメーはリシャール・レスクリードと共に『パリ・ア・ローフォルト』という短命で終わる週刊誌を創刊。この誌上でフレデリックはタクシィル。ドロール著『第二帝政の歴史』など多くの作品に挿絵を施し、風景画家としての才能を発揮する。
1885年には、『リリュストレ・コティディアン』誌の創刊に加わり、スポーツ(乗馬、フェンシング)のテーマを担当する。さて、当のフレデリック・レガメー(1844-1907)は、父親と兄に青に後押しされ、またかつてグロ(1771-1835)の弟子であったフィリポンからもデッサンを奨励される。グロは1830年風刺新聞『ラ・カリカテュール』、『シャリヴァリ』を創刊し、またオノレ・ドーミエ(1808-1879)やギュスターヴ・ドレ(1832-1883)のような才能を見出した人物である。
老練な師フィリポンは数枚のスケッチを見ただけで若いフレデリックに興味を持ち『ジュルナル・アミュザン』誌に彼を紹介する。

(第二部に続く)

第二部 日本に捧げた30年

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フェリックス・レガメーとエミール・ギメは、彼らの世界一周旅行の後も決して別れことはなかった。二人の友情は日本とアジア美術への共通の情熱で固く結ばれていた。レガメー とギメは共同で書物を著し、イベントを開催し、パリ日仏協会のような団体の創設に関わっ た。ギメが宗教博物館(ギメ美術館)を設立しようとしたときには、レガメーが手を貸し、同 館の運営にも参加した。しかし1899年に3カ月の間、レガメーだけが教育美術大臣の命で再び 日本へ派遣される。
画家は20年ぶりの「憧れの国」に以前と変わらぬ深い感動を覚えて、フ ランスに戻る。そして残りの人生をすべて日本に捧げることになる。

フランスへの帰路

エミール・ギメ(1836-1918)とフェリックス・レガメー(1844-1907)は日本での滞在を終えて世界一周の旅を続けた。神戸から中国行きの船に乗り、1876年11月半ばに上海に到着。数日 後には香港を経由して広東まで移動、同地で10日ほどを過ごした。つづいてマカオを訪ね、 香港へ戻った。この短期間の中国訪問は、南部の沿岸都市だけに限られたせいもあって、二 人には不満が残った。レガメーは「光の日本」に「陰の中国」を比べている。ギメは有能な 通訳が見つからなかったために、宗教に関する掘り下げた調査をすっかりあきらめ、この分 野の文献収集に専念した。12月半ば頃、二人は気を落としたままこの英国の植民地をあとにする。サイゴンにしばらく立ち寄ったあと、シンガポールに到着。さらにセイロンへ向かい、 1877年1月初めにこの島のゴールとコロンボを訪れた。つづいてコロマンデル海岸のツチコリ ンで南インドに上陸、そこからマドゥライ、タンジョール、ティルチラパリ、マドラスなど 宗教的の中心地を巡って、2月の初め頃ようやくボンベイの町に辿り着く。インドでの収穫は上々だった。ギメは観察で、レガメーは大量のクロッキーでそれぞれ充分 な成果を得る。欧州への帰途に就いた旅人はアデンとカイロに停泊し、スエズ運河を通り、 ナポリとローマに寄って数週間後マルセイユで下船する。3月末か4月初めの頃である(それぞ れの寄港日もフランスへの到着日も詳細はまだ不明)。 パリへ向かう途中、レガメーはギメの住むリヨンで足を止め、同地域の労働者のために世界一 周旅行を語る最初の講演会を開いた。ギメの語りに合わせて手早く黒板に挿画を描いて行くレ ガメーの手腕に聴衆は目を丸くした。

日本を愛した旅する画家  フェリックス・レガメー              

株式会社セリク創業社長   クリスチャン・ポラック

K K SERIC PRESIDENT   CHRISTIAN POLAK