高杜 一榮の世界

WELCOME TO TAKAMORI COLLECTION

高杜 一榮の世界 ≫ フランスから学んだ日本の航空技術

フランスから学んだ日本の航空技術

0000224639.jpg
フランス遣日航空教育軍事使節団

株式会社セリック創業社長    クリスチャン・ポラック

第1部:先駆者たち(1805-1912)

フランスと日本との関係が始まると同時に、軍事はきわめて重要な役割を果たす。
フランスは自国の技師を日本に派遣し、技術とノウハウをもたらした。1865(慶応元年)年から1876(明治9)年までは横須賀製鉄所(明治4年に横須賀造船所に改称)の建設と、1867(慶応3)年から1868(慶応4年・明治元)年まではフランス第一次軍事顧問団、1872年から1880年までは第二次軍事顧問団、1884年から1889年までは第三次軍事顧問団をそれぞれ派遣、1886年から1890年には技師エミール・ベルタンによる日本帝国海軍の近代化、そして1899年には在東京フランス公使館付国防武官が正式に設置される。
また毎年多くの日本人士官がフランスに留学したことも忘れてはならない。フランスは海軍に戦艦を、陸軍に各種武器を定期的に供給もしている。1910年代以降、フランスは航空機および航空機材も供給することとなる。そして遂に1918年、日本はフランスに航空教育軍事使節団を招聘するのである。50人を超えるフランス人技師たちがいかにして、日本に軍事航空技術と航空産業の基礎を築いたかを以下に検証しよう。

はじめに気球ありき

ジョセフ、エティエンヌ・モンゴルフィエ兄弟は1783年、初の空気より軽い飛行体にして後に「モンゴルフィエール」と呼ばれることとなる熱気球を発明する。これは同じ年の9月、ヴェルサイユ宮殿にてルイ16世に披露され、王の心を虜にする。
1872年1月2日、明治天皇睦仁は横須賀造船所への初行幸の折、同じ喜びを味わうこととなる。天皇が公衆の前に初めて姿を現したこの行幸を手配したレオンス・ヴェルニは報告書にこう書き残している。

「(行幸第2日)12時過ぎであった。昼食が我々執務室の一つに用意された。2時、陛下は随行のフランス人従業員と謁見され、ご覧になった全ての物に対するご満足の意を表された。それから日本人潜水士の演習が行われ、彼らは我々の機材をきわめて器用に取り扱った。一行は哨戒艇『スゴン』号が停泊しているドッグを一周し排水機を視察後、建設中の新ドッグに第一礎石を据えるため赴いた。
横須賀の工事以前にモルタルが建設に使われたことのなかった日本において、この儀式は全く新しいものであった。式典は木の枝でしつらえた天蓋の下に座した帝の親臨のもと、三條御大臣(三條実美)により執り行われた。伝習生たちはこの折、自分たちが造った気球1基を飛揚させる光栄を賜った。竹内正虎は自著「日本航空発達史」で全てをあますところなく網羅したとしながらも、上記の出来事には触れていない。だが、これは日本で2番目に揚げられたモンゴルフィエールに違いない。
日本で初めてのモンゴルフィエールは1805年3月長崎に近い梅香崎で、ゲオルグ・ハインリッヒ・フォン・ラングスドルフが行っていた。偶然というものは存在しない。実はこの趣向は、かの有名なモンゴルフィエ兄弟の子孫で、横須賀造船所の書記官を努めていた技師ルイ・エミール・モンゴルフィエ(1842年生、1896年没)によって提案されたものである。この技術を熟知していた彼は、横須賀造船所内に設けられた技術者教育機関「黌舎」の日本人生徒たちに小型モンゴルフィエールの製造方法を教え、これが日本への気球導入の第一歩となったわけである。この技術は1877年、海軍に採用され、1890年複数の気球がフランスから輸入された。1903年山田猪三郎は繋留式気球を作り、これは翌年の日露戦争で日本の軍隊により使用された。

山田は1909年には14馬力エンジン付き飛行船を、1910年には50馬力エンジン付き飛行船をそれぞれ1機完成させた。

1909年:フランス人設計の複葉グライダー、日本初の公認飛行

在東京フランス大使館付フランス海軍中尉イヴ・ポール・ガストン・ル・プリウールは航空技術に熱中し、1909年、日本人の友、相原四郎海軍大尉と共に、竹製の胴体をキャラコ布で覆ったグライダーを自費で作成する。彼らが参考にしたのは、航空産業のパイオニアとして有名なフランス人、ヴォワザン兄弟の設計図である。
第1回の試験飛行は青山のル・プリウール宅のそばの急な坂道で行われたが、これは失敗。第2回は青山学院の校庭で行われるが、これも失敗。第3回は複葉第2号機で行われ、今度は成功する。
12月9日上野公園にて、第2号グライダーは自動車に牽引され、数メートル浮揚する。だが、これは公認飛行には充分ではなかった。そしてついに、1909年12月26日、上野公園池之端の広場にて、ル・プリウールは自動車に牽引された複葉グライダー第2号機に乗り、高度10メートル浮揚、そのまま130メートル滑空を続ける。
これは「空気より重い」物体の日本における初飛行として公認されるのに、充分であった。相原も飛行し、日本の空を飛んだ最初の日本人となるが、不忍池の真ん中に墜落してしまう。

(これ以降は電子本「日仏外交史は隠されていた」をご覧ください。)

電子本「日仏外交史は隠されていた」はコチラです。

編集後記=これほどの歴史がありながら

日本が航空技術の分野までフランスに世話になり、援助をしていただいていたこれほどの歴史がありながら、その事実を歴史の中に埋没させたままにしていたのか、不思議でならない。これほどの歴史を隠す理由もなくまた隠さなければならなかった理由も見当たらない。それほど日本は、戦争を通過した後、その後遺症が酷かったというべきなのか、理解に苦しむ。ともあれ、日本はフランスにはご恩があると言いたい。そのご恩を出来る限り、形として返すこと、そして恩恵を受けた歴史を多くの人が思い出すことをお勧めしたい。そうでなければ、自分たち日本人がほかの国々に対して行ってきた行為や援助も歴史の中に埋没される運命にあることになるだろう。日本人は恩義を忘れない民族のはずだし、国家間で恩恵を受けたのであれば、それを形にして思い出すことは平和につながると思う。
どうか、この一文をごらんになった方々は是非日本とフランスの間に美しき師弟愛のあった歴史を持っているということを忘れないようにし、フランスとの密接な「絆」を大切にして、これからの友好関係をもっと広く深くしてゆくことに心をくだいていただきたい。(高杜一榮)