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日仏外交裏面史:メルメ・カション

カションが仏訳した家茂の親書

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日仏外交裏面史:メルメ・カション

メルメ・カションはパリ宣教師会の指令により1855年仲間とともに、琉球にまず上陸した。
飲まず食わずから、自給自足へと神のお導きで、ようやく村民と接近することが出来た。その
後日本語を習い漢字を習得し、通訳翻訳が出来るようになり、次第に日本本土へと上って行った。
日仏通商条約の際に和文の委任状を作成、グロ男爵上陸の際の通訳ならびに後のロッシュ公使の
通弁官に採用された。日仏外交の大舞台へ進み、出世への拍車がかかった。ところが、パリ万博
以降カションの外交舞台はなくなる。突然の幕府瓦解の知らせが届き、その後のカションは行方
不明のままだった。晩年の地も墓も見当たらなかった。一説にはニースで身投げしたという情報
があった。彼の墓は宣教師会を脱退したためか世界のどこにも記録がなく、足跡が全く掴むこと
ができなかった。
しかしながら、日仏外交史研究家のクリスチャン・ポラック氏が1985年に彼の晩年の地を突き
止めることができ、メルメ・カションが極秘に仏女性と結婚し二人の娘に恵まれており、1889年3月14日に
カンヌで亡くなっていたことが判った。それまで情報が得られなかった最大の理由はカションが幕府の機密
事項を知り過ぎていたため、命を狙われる可能性が大であり、カション自らが身を隠さねばならなかった。
そのため、あえて身を隠し続けていたと推理できる。カションの存在なくしては日本の繁栄と発展の実現は
全くありえなかったといえる。彼の日本語の通訳による家茂殿とロッシュ公使との対談の実現が極秘でが
なかったとすれば、彼は命を八方から狙われ続け、フランスに帰ることもできなかったはずだ。

カション関係年表

1828年
カション生まれる
1852年
カション、パリ外国宣教会神学校に入学
1854年
司祭となる
1854年
日米和親条約調印
    8月
カション、アジアに向け出発
1855年
カション、ジラール、フューレと共に琉球へ
1857年
日蘭、日露、日英修好条約それぞれ締結完了
1858年
グロ男爵と共に下田に来航
1864年
ロッシュ来日。カションを通弁官として起用。
     11月
横浜仏語伝習所開校
1866年
カションパリ宣教会離脱
1867年
パリにて、ナポレオン第三世皇帝に徳川昭武謁見、カション通訳として陪席す。
1889年
カション、ニースにて死去。

(資料:メルメ・カション、有隣新書、富田仁著)