高杜 一榮の世界

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モノローグ

20160925日曜日

最近目立っていたのは、某芸能人親子がマスコミに叩かれた事件があるが、当初報道には書かれていない部分があるらしいと感じた。つまり裏面はまだ書かれていないようだ、と思えた。最近になってようやく真実らしいことが書かれるようになった。あれは暴行事件ではなく芸能人親子を襲った恐喝事件だったと判った。そうではないか、と推測していたらやはりそうだった。そうした事件は隠蔽されてしまい、巧妙に事件を伏せてしまいたい立場の人びとがいることが多い。三面記事にはそうした「コレは隠蔽されている、多分この記事は推測だけ」という雰囲気の記事が大いにある。というのは騒がれてから真実が少しずつ出てくるしかけになっているため。水道のトラブルと同じで、チョロチョロ出てくるだけの記事には後ろに莫大な量の隠蔽された真実がないことはない。新聞はそうした意味で創作の要素もある。創作が真実を引き出しまたその真実が創作になる。複雑な構造がどこにでもある。ただ記事だけを読み、これはまだ何かあるらしい、と感じるのは読者側には意外なレッスンになって結構勉強になる。最初はひたすら謝っていた親子が最近ではメディアに本音の表情をみせるようになった。大変苦労なさったことでしょうが、これからは良いことがありますようにと祈っております。傷ついてもそれが仕事に生かされることがありますように。
 
 

2016年09月25日 12:21 |コメント|

20160923金曜日

9月20日テレビ朝日で「こんなところに日本人」という番組でマダガスカル(神秘の島といわれているアフリカの東側に在る島)に行った映像を放映していた。このマダガスカルは仏領だったので数十年前に「この国で暮らしてみたい」と何も知らずに呟いていた。ただ地球儀の中のこの島が魅力に思えただけで何も知識がなかった。ただ仏語が通じると言う理由でむやみに行きたいと願っていた。若い頃(二十代前半のころ)なので、そういう無謀な戯言を言っていたのだが、その後マダガスカル出身の男性に会ったことがあり、仏語で会話した。肌の色が異なること以外は何も気にならなかった。だがわたしがその人と歩いていると若い女性たちは、振り向きざまに軽蔑の色をあからさまに浮かべた。まだ人種差別があからさまに行われていた時代だ。メリカの人種差別とほぼ同じスタンスが街歩く人々にあったということだ。その人のいる国に行く機会はなかったが、そのうち忘れていた。テレビの画面に映じたマダガスカルの光景は忘れていた過去を思い出した。もしあの当時親の反対を振り切って行っていたら、番組に出てくる日本人の方と同じに、現地の人と結婚して子供をつくっていたかもしれない。それはそれで幸せだったかもしれない。別に親しい人がいたわけではないが、ただマダガスカルと言う島に興味を抱いただけだった。わたしには母がいたので外国に行っても帰らねばならない運命だった。再婚した際わたしは母を連れて広島で暮らした。マダガスカルが広島になっただけだった。
 
2016年09月23日 08:17 |コメント|

20160920火曜日

良く聞いたことがある。結婚した女性が「自分が亡くなった後、夫には絶対再婚して欲しくない」その言葉を理解できるが、本当に夫を愛しているならそれは酷い言葉であることには違いない。その言葉を伝えた人を知っているが内心「わたしなら絶対そういうことは言わない」と思えた。死んだら自分がいないのであり、生きている人と別な世界観がある。だから自分の感性で配偶者に足枷手枷を嵌めさせてあの世から見ているなどそのような冷酷なことは出来ない。それは生きている人に対する甘い言葉だが、実際にはまるで甘いおはぎの中に冷たい堅い板の切れっ端があるようなもの。生きている人が暮らすための言葉にはなっていない。それは愛する人には温かい言葉だろうが、死んでからみれば冷たい言葉になっているはず。どうか死に行く夫に「あなた再婚しないでね」または生き続ける妻に「お前は再婚するな」などと言わないで。それは生きている人の自由に任せるしかないし、それを命じることは「軽犯罪」に近い。最期には相手の人権を尊ぶ姿勢が望ましい。
 ところで週刊誌などで都知事の過去のミスやまたは細かい出来事を追跡し、これは問題だなどと、喧しい記事が出ている。日本で初の女性都知事に期待を寄せるのは良いが、足元を棒で払うようなスタンスはいただけない。マスコミは報道の自由があるが、節操と礼儀をもっと研鑽すべきではないのか?
2016年09月20日 08:21 |コメント|

20160916金曜日

実を言えば葬式が嫌い。自身の葬式嫌いは実は馬鹿高い葬式の費用に反意を抱いたのが始まりだ。母の葬儀の際見積もって貰って三十万の見積もりが出た。その内容は祭壇なし坊主を呼ばない、もちろん食事なし。あるのはただ場所のみ。何もなくて三十万。もし全部揃えれば百万は越したはず。何故そんなに葬式代に頭に来たかといえば、その昔葬儀屋の人と話したときに、その方が述べたことが発端。「葬式など、あれは詐欺に近い。何もなくとも五十万は取る。お坊さんを呼んで、お経を頼み、祭壇をつけ、食事を出す。それだけで百万以上になるのは祭壇の価格が高いから。祭壇は一つで数百万はするもの。だけどそれを使い回しているのでただ同然。だから本当は最低十万でもできるはず。払うのが馬鹿馬鹿しいなら、何も頼まないでおけば、ほとんど無料で出来る」と言われた。それ以来全く何もなしにした。母の時も兄のときも無料。何故葬式が嫌いかといえば、故人の横たわるお棺のそばでじっくり黙って座っていたかったから。葬式は何もせず、じっくりと座っているだけが良い。その方が悲哀をじっくり味わえるしなおかつ他人が本当に悲しんでくれると思わないので、そういう無作法な流儀を貫いているのだが、果たして自分の葬儀になにもしないで欲しいというのかどうか、今は判らない。今度なぜ葬儀は必要かじっくり考えたい。
2016年09月16日 04:14 |コメント|

20160915木曜日

週刊新潮の160922号に高山正之氏が書いていたある殺人事件の加害者の情報に驚いた。被害者を数名の少年たちが当時未成年者だったために、裁判で主犯格を除いて五年の刑で出所できた。だがその結末が過激。その男たちは出所後に犯した犯罪と同じことを繰り返し再度捕まった。某法曹界の人物A氏は加害者への思いやりであったのか刑を五年の刑にしていたがそこで後悔したはずだ。思いやりそのものが再犯をもたらしたとも、見えたのだ。それも加害者の背景が共産系であったため、情状酌量があったとか、なかったとか。その後A氏は某証券会社の顧問弁護士に収まった。ところが被害者の怨念か、別な事件が起きた。株で大損した男が八つ当たりで、そのA氏の屋敷を訪れて夫人を刺殺した。そこで最愛の夫人を刺殺されて眼が覚めたのか、加害者への思いやりをバッサリ切って捨て、法廷で無理難題(遺影を持ち込む、犯人を面罵させろなどと)を訴えた。すると裁判では「あなた方が被告の人権を侵害するから、といって様々な規制を作ったのではないか」と言われ希望は認められなかったというのだ。法曹界の方々も一旦自分の身に被害を受けると恥も外聞も高邁なポリシーもかなぐり捨てて、自分の感情を優先させたがるというほとんど見本のような話。死刑廃止とか、または終身刑とか皆論議を繰り返すが、つまり犯罪には「最適で妥当な刑」などは存在しないと言える。とにかく犯罪の歴史は長く厚い。もう好い加減死刑判決の出ない日本に改革できないのか?そのためにはそれ専門の研究大学が必要だろう。
2016年09月15日 11:51 |コメント|

20160913火曜日

 築地か豊洲かと大変話題になっている築地の魚市場の件だが、ここまで問題をこじらせ複雑にしたのは、中間に得体の知れない組織が暗躍したせいではないのか、と訝しく思ってしまう。なにしろ築地が狭いとかいうが、豊洲に移さず、あの場所で平屋ではなく、すべてのスペースを五階建ての建物として生まれ変わらせることができなかったのか、と疑問に思う。食料を扱う業者ばかりなので、それなりに意見があるだろう。高い建物では駄目であるという理論的に理解させる理由があったのか。もし高い建物で食料を扱うのはよろしくない、という何か大きな理由があったと考えると、そこには意外な抜け道があったはず。現代はあらゆる技術を世界規模で探せるし、日本国内でも超現代的な新技術を生み出すことが可能になる時代だ。築地を移転させずに、おなじ場所で「築地の高層ビル街」にできなかったのか?それが不可能であるなら理由を知りたい。もし予算的に築地の高層ビル街計画が不可能でなかったら、今ほどの問題も起きなかったのではないか?案外皆は簡単なことを難しく考えたのではないのか?この問題でも判るように、政府関係や公共の事業などの問題で明るみに出るのは、重要なことである問題などがいつの間にか隠蔽され、公表を渋る傾向にあるようだ。不正とか何か隠しておきたい事項などが露呈するということは、日本人の本来の姿勢がやや劣化してきているのではないか、と不安になる。誠実、真摯、勤勉の日本人本来のスタンスを変えることでますます問題が増えてゆく筈。
2016年09月13日 05:54 |コメント|

20160911日曜日

以前から人口減少で騒いでいるが、一番の解決策はある。それは「堕胎禁止」だ。これはある意味恐怖政治的で人道的ではないかもしれない。だが、これが近道であるし、簡単に解決するのではないだろうか?堕胎はいつの間にか大手を振って横行しているがコレこそ人口減少に極めて一番問題視すべきではないか。以前から堕胎禁止が決定打ではないか、と思っていた。声を大にしていえば問題だが、誰でも心の底では「それが一番手っ取り早い」というはず。であれば皆一致団結して、それに向かって真面目に取り組めば良い。堕胎を希望する女性に政府側が(段階的な組織を造り)正当な形式で行われるように援助する組織を編成し、各人の希望通りにそれが行われるようにする。これは誰でも出来そうで成立までに苦難の時期があるかも知れない。しかし日本がこの問題で大きな壁にきた時に騒いでも遅い。なるべく早く対策をしなければならない。
2016年09月11日 09:42 |コメント|

20160910土曜日

先日の産経に曽野綾子氏がネクラも楽天家も世の中には必要な人材だと書いていた。曽野氏は若い頃、眼科医に「「あなたの眼は蝋燭みたいな性質(つまり使った分だけ視力がなくなる)」と言われたそうだ。曽野氏は失明したときに備えて本を読んで気に入った箇所があると赤線で引いておいたという。つまり自分が読めなくなったら、人の助けで再度赤線の箇所をすぐわかるようにしておいた、というのだ。しかしながら眼科医のご託宣もかなり粗忽な診断。もしそれを宣告するならもっと希望を与える診断を下せなかったのか?だが無意味な期待を抱かせるより真実を伝えるのが正道だろう。とはいえ、この世は意外にも落とし穴もある代わりにその逆の天からの想定外の賜物がないとは言い切れない。そのため悲観的な判断をされても弱気になってはいけない。とはいえ医師にはその点において、判断の際言葉に充分気をつけてもらわないと生死に関わることになる。以前書いたことがあるが、医師に「この薬を飲まないとあなたは死にます」と宣告されたことがあり、ムカっと来て背を向け、自力で治した経験があるわたしは言いたい。医師はその医術を研鑽するのも重要だが、より重要なのは患者に伝える言葉だ。患者を救うか救わないかは言葉次第。曽野氏に「あなたの眼は蝋燭のようなもので使った分だけなくなる」と宣告した眼科医の先生にに一言「医師としての言葉の勉強を」と言いたい。わたしの場合医師に「飲まないと死にます」と言われて生来天邪鬼なので、背を向けたがそのお陰で自身がかなり強い人間になったと思う。その医師に感謝したいと今では思う。
 

2016年09月10日 10:38 |コメント|

20160907水曜日

昨日9月6日の産経に「減胎手術」医師ら提訴、という見出しの記事が載っていた。不妊治療の果てに五つ子を妊娠した場合に思わぬ事態になってしまうことがあるらしい。五つ子を妊娠したが、全部出産できることにならず、それでも一人で良いから生みたいという意志があった場合のことだが、これを調整するのが減胎手術というようだ。この産婦さんは不妊治療の末五つ子を授かったものの、様々な条件が重なり一人も授からず逆に裁判沙汰になっているのだ。難しい問題なので部外者は意見を述べる権利も資格もない。だが薬物注入による減胎手術は、母体保護法が定義する人工妊娠中絶に当てはまらないため、法的規制がない。このケースでは術前のエコー検査で五つ子の中に一卵性双生児が含まれていたのだが、医師が見落としたために双子も助からなかったという事態になったという。妊娠とそれにまつわる様々なトラブルは増加しているようだが、この分野の歴史が浅いためにルール作りも難航しそう。子供を欲しい人々は多いが、問題の産婦さんも周囲も、子供を持つという情熱のために、何かを犠牲にして奔走しているように見え気の毒だ。現在係争中だというが、この分野の歴史の浅さが裁判にどのように作用するのか、気になる。医師は一卵性の双子を区別できないまま女性の腹部に減胎の薬物を30回以上注射していたという。裁判がどうなるか見守るしかない。
 

2016年09月07日 14:14 |コメント|

20160901木曜日

新聞の記事を読み「なるほどそうだ」と思った読者の投稿がある。それは産経の談話室のエッセイ『「無理心中」と呼ばないで』だ。本田格さんという方が書いている。記事に「無理心中と簡単に書かれているが、元々は近松の心中物から来た言葉なので、家族の自殺や親子の自殺を心中と新聞に載せるのはどうか」という内容だ。心中というと何故か様(さま)になり、印象が悪くないという理由もあるらしい。ただ単に夫婦自殺、親子自殺で通ることもありえる。だが無理心中というとその悲惨さがきちんと伝わる。使うほうも簡単だから使うのだろう。もっと適切でなおかつ順当な言葉がないのかと思える。そういえば随分前からこの言葉が使われている。その理由は一番適切な表現だと思えたからだろう。他にあるだろうか?「理不尽自殺」「不本意自殺」「他殺風自殺」「許せない複数自殺」「強引自殺風他殺」「無理由自殺」「無意味自殺」など挙げてみたが、どれも的確ではない。ともあれ、この種の強引な心中が行われる前に食い止める方法はないのだろうか?例えば練炭を買うとか、自殺のための必要品を買う客には自殺はしないでください、と声掛けぐらいはしてあげなければいけない、と思う。相手が苦笑いしても良いから「死なないで」ぐらいの言葉を掛けるべきかも。ところで心中という言葉を使わせてもらうが、決行する前にお互いの意志を確かめてしているのかどうか、だ。そうでなければ殺人まがいの心中となってしまうはず。誰か殺人に近い心中を止める方法を編み出して欲しい。
2016年09月01日 12:09 |コメント|