高杜 一榮の世界

WELCOME TO TAKAMORI COLLECTION

高杜 一榮の世界 ≫ 高杜一榮のモノローグ

モノローグ

20170425火曜日

フェイスブックの記事が日経に出ていた。内容はFACEBOOKが台頭してくる写真共有アプリの米スナップに対して攻勢を強めているというのだ。その莫大な情熱と根性で、新たな巨大組織に進化するべく日々努力をしている。自身は2000年に日本で最初のパソコン絵画教室(当時は電筆画教室と称していた)をオープンした。その後日本初のインターネットのホームページをオープンした。当時は米国の某組織に世話になったが、数年前に日本のドメインに移転した。というのも、トラブルが起こり予告なしにいきなりドメインを閉じられた。こちらから電話で交渉したが、結局再開は2万5千円出さねば再開不能という宣告を受け、仕方なく退会した。金額をドルで提示された時はやはり日本人の商売のやり方ではなく、邪険で情のない雑な空気があった。移転したくてしたわけではない。思えばこの分野に入ってから長いが、最近では追いついてゆくのが難しくなってきた。フェイスブックもつい最近やり始めたが、まだインスタグラムには精通していない。世の中には莫大な量の知的世界が広がっているのに、こうした眼に見えるが良く判らない世界に仲間入りをしなければ生きて行けないような空気が漂う。しかし親友の一人は「未だにパソコンをやっていない」人が結構いたりするので、それほど焦る必要もないが、何か眼に見えるそうしたデジタル世界に漬かっていなければ、相手にされない不安もある。ともあれ人生に重要な真実や知性を知ることも出来ずにデジタルだけで時間を費やしてしまいがちなので、困惑する。ゲーム機に夢中になっている人もいるのでそれほど不自然ではないだろう。以前なら「わたしはわたし」で通用させていたが、もう少しで世間では通用しない感覚になっているのではないか、と余計な神経を使い始めている。もう少し冷静ならねばならない。何でも新しければ良いわけではない。
 
2017年04月25日 09:34 |コメント|

20170419水曜日

つなぎ融資の女王山辺節子容疑者の事件が最近テレビで盛んに報道されている。理解できないのは被害者が簡単に一千万とか数千万などすぐ赤の他人に委ねてしまうということ。現時点で被害総額約七億円となったらしい。だが本当に騙されたとすれば不思議。どうして一千万以上の金や億単位の金があるというのに、それ以上の金額を欲しいと思うのか?そのぐらいあっても、もっと儲けたいと何故思うのだろう、と貧乏人のわたしは不思議に思ってしまうのです。儲けたいのは判るが何故簡単に騙されるのだろう?それほど熟慮せずに金を預ける神経が理解できない。そういえばわたしには母が、当時の金の取引で「金を買った」と言いわたしに満面の笑顔で話してくれたことがあった。結局山辺の事件とほぼ同じ詐欺の技術を持った会社組織の詐欺だった。訪ねて行ったところ体よく「今、解約すると元金の半分も戻りません」などと言われ結局は245万ほど騙された母はその時ショックだったらしく、営業に来た人の名刺に針でチクチクと刺し呪っていた。それを見て漫画か劇画の中にいるような気分になった。しかしその母の経験をそばでみていたわたしは「金があってもそれを増やそうとしないこと」と心に誓った。増やそう、得しようなどと思うと損することになるのは、当たり前と思うことにした。貯めた大金を大胆な投資話に唆されて動かすことのないように是非常に注意することをお勧めする。人生「金」のために明暗を別けられるのは時間の無駄です。もっともマゾヒズムで金がありあまっているので痛い思いをしたい方には何も申しません。
 

2017年04月19日 07:59 |コメント|

20170418火曜日

最近棟方志功の版画が某美術館でコピーではないか、と疑惑を招いたという。実物を盗み、コピーに変えてしまった人物がいるらしいが、果たして本物を持ったとしても「これを買った」と公言して人に自慢をしたいのか?そうした恥をかく可能性のある「贋作」を所有したとしても喜べるものだろうか?世の中不思議な人物がいるものだ。ともあれ盗品をいつのまにか掴まされて喜ぶ人もいるのか。聞いた話だが美術品を蒐集する人物はどうやらそれが盗品だったとしても、隠し持ってその逸品を愛するのだ、そうだ。その種の人がいるのだ、と思うと美術品愛好家には「正義の蒐集家」というのは存在しないのか?棟方志功氏の嘆きが聞こえてきそう。おそらく「わたしの版画は心根の優しい正しい人が持つべき」と述べるだろう。版画の値打ちは下がらないが、イメージは付き纏うはず。「これってコピーではないのか?」この世に真っ当な美しい世界はどこに在るのか?棟方氏の版画を愛する人々にとっては、許せない出来事に違いない。どこかで棟方志功のコピーではないこの本物で得している人がいるとしたらはっきりいえば芸術に対する冒涜に違いない。
 
2017年04月18日 12:55 |コメント|

20170412水曜日

今、新作を書いている。幼い頃に銭湯で見た刺青について書いてみた。まだ完成していない。最近友から読んだら捨てて、と本を三冊送ってもらった。その中のひとつに「梅干しと日本刀」樋口清之著、があり一ページから気に入ってしまった。130万部のベストセラーだそうだ。日本人の知恵が世界的に高く優れているというのが主旨で、ただ面白いだけでなく、改めて考えさせられた。自然環境が極めて多様で厳しく、日本は住むのには不向き。その環境に、現在の日本の優れた技能の鍵がある、という。忍耐を要し、自然との対応に知恵を絞らねばならなかったた太古の日本人。彼らは脳も身体も厳しい天候や災害に鍛えられ強くなったという。西洋では自然に逆らって自然を捻じ伏せて暮らすことを目指したために、日本とは別な暮らし方になった。地震も台風もそれほどない土地に住めば脳も身体もそれなりに鍛えられない。日本人は常に環境に翻弄されていた。どういうわけか日本人は脳も身体も常に環境に無駄な抵抗をすることなく柔軟に対応、自然に対して賢かった。それが日本人の美意識にも文化にも影響を与えているというのだ。確かにその通りであり、日本が世界で賞賛され続けているのは、その厳しい自然に対する逞しいスタンスのせいであった。日本人は諦めない。地震があっても台風がきても、どんな災害に遭っても諦めずに助け合い頑張ってきた。何故なら大昔から自然に逆らわない精神を培い、お互い励ましあって生きのび続けてきたから。それが日本人の最大で貴重な遺産だった。その遺産で世界一とも言われるような賞賛を浴びている。これからの日本人もそれらの遺産に恵まれてはいるものの過酷な自然に対するスタンスを長く継げ続けなければならない。自然に対する礼賛と従順の質をいつまでも持ち続けることが日本人の幸福に繋がる。果たして若い人々は先人の賢明と忍耐を継承し続けられるだろうか?
 
2017年04月13日 06:39 |コメント|

20170406

最近小学生時代の友達と連絡し、クラス会という会に出席することになった。これが何故か不安。というのも小学校のクラス会では、全くの新人に等しい。わたしは卒業してからクラス会に出席したことは全くなかったので、ややビビっている。というのは数十年も会っていない人々に会うことになるわけで、ざっくばらんというわけには行かない。彼らは、小学校卒業してから毎年のようにクラス会へ行っていた筈。わたしが何故不安に思っているのかといえば、わたしには彼らはいわば未知の人たちということになる。自身が何故クラス会に参加しなかったのか、には理由がある。わたしが十代の頃には家庭内には様々な出来事があった。父と兄の病気、麻布からの引越し、母の病気、父母の離婚、わたしの結婚と離婚など。それらが理由で心落ち着かない年月を過ごしていた。そんなわけでご無沙汰していた人たちに会うことになる。何故そうなったかといえば、麻布十番の商店街にクラスメートがいて、用事で毎月でかけていた頃運良く友に再会した。「クラス会に出たらいかが?」と勧められ、決意した。会わなければ何も始まらない。そんなわけで心ときめくというか心落ちつかないことになってしまった。ともあれ白髪となったわたしを誰も想像していない筈。小学生の頃に戻るには無理かも知れないが、幼い頃の写真を持って会いに行くしかない。毎年会っていた人と突然別人に会うのとの差は大きい。どんなハプニングが起こるか判らない
2017年04月06日 15:22 |コメント|

20170405木曜日

朝靴下を穿く時、靴下が五本指の場合何となく「ああ、わたしは五本指のある動物なのである」などと思わなくても良いことをふと思ってしまう。指が五本に分かれていることを改めて感じると奇妙に背中を伸ばし、これまで生きてきた人生に思いを馳せる。意味は特別にない。しかし人間として生まれているが、五本指であると思うと何故か、これで良いのか?という思いがあるらしい。人間は進化しなければならないわけではないけれど、五本の指を眺めると何故か焦りが起こる。どういうわけか、自身の身体が獣の一種であると考えると不思議と無限の世界に誘われる。哲学的でもなく、ただ不合理な生き物に生まれたという思いが底にあるのか、不明なのだが、まだ他に理由がありそうだ。そう、つまりは人間は哲学などの深い思念を思わなければ獣であるだけだ、というまるで邪険に放り出されてしまう発想が起こる。眼をつぶろう。何も見なかったことにしよう。五本指の靴下を穿かなければ苦しむことはない。
2017年04月05日 05:36 |コメント|

20170328火曜日

週刊新潮には毎週、墓碑銘という訃報を伝えるコラムがある。今回三月三十日号に『マディソン郡の橋』の作家ロバート・ジェームス・ウォーラー氏の訃報だった。『マディソン郡の橋』が世界的ベストセラーになり1200万部も売れたのは多くの人が知ることだ。映画になったこの小説は今時の若者の恋愛とは異なり、極めて静謐でなおかつ純度の高い愛のできごとを描いている。四日間の静かな密やかな関係は心に残る愛の物語であったと見え、日本でも評判だった。映画館で観た時はアメリカ映画にしては騒がしくなく、なおかつ低廉ではない澄み渡った豊かな空気を伝えていた。その作者が亡くなったと聞くと何故か、あの映画の主人公が亡くなったかのような戦きがあった。ウォーラーさんは実際には在学中に結婚し、経済学者として大学で教えていた。なおかつその趣味がギターを弾くカントリー・ウエスタンのバンドの一員であり、写真の趣味もあった。生徒には「人生においてはロマンを大切にしなさい」と教えていたという。四十代、五十代の恋愛物がそれほど多くない時代に、静かな大人の関係を描いた、のが新しい感性と受け取られたのかも知れない。おそらく一生に一度の純愛に特別な憧憬があった、と思われる。プライベートではウォーラーさんは目立つことが嫌いだったが、彼の家に仕事に来ていた造園技師と恋に落ち、離婚する羽目になった。三月十日テキサス州で七十七歳で逝去。多発性骨髄腫で闘病中であったという。彼の作品『マディソン郡の橋』はアメリカでは古典として根付く予想があるらしい。あの映画の場面を思い出しながらまた再度観たいと思っている。

 

2017年03月28日 05:38 |コメント|

20170321火曜日

最近では慣れてしまったけど、よくTシャツの前面や背中に英語で文字のついているのを着ている人を見かける。英語の文面を読むと、中には酷い文もある。ある時若い青年の背中に英語で「お前の周囲のすべての女をやれ!」というのがあった。あれは英語を良く学んでいるならすぐ解かる内容だが、おそらく着ている本人はどういう文か知らないで着ているのだ、とうかがえた。皆英語の書かれたシャツをカッコ良いと思っているが、意味が解かるとなおさらカッコ良いのに、と思える。外国では漢字の文をそのままプリントしているTシャツを着ている。結局文などは判ろうが判らなくても大して重要ではないらしい。その意味があるようで意味のない文字の列がナウイことになるらしい。不思議な雰囲気を漂わすそれがモードなのだろう。雰囲気は金で買えることになる。雰囲気という漠然とした「領域」を学問化するのも、一案。人間にはさまざまな面があるから楽しい。

ところで、最近携帯でクラシルというサイトがあり、こと細かく料理のレシピ情報を発信している。なかなか面白いのでアクセスしていたら急にインターネットにつなげられなくなった。それでドコモに行って尋ねてみたら、サイトにアクセスが多くなり、それが超過して限度を越えてしまったというのだ。そのまま続けていたら月千円アップだとか。それは困るので何か知りたい時は従来通りパソコンで見ることにした。この前はタブレットを無料で貰った。しかし次第に機械に拘束されてゆくのを感じる。何事も適当な量の好奇心が良いかもしれない。のめりこまないためには、無関心でいることが良いのだろう。
2017年03月21日 16:32 |コメント|

20170318土曜日

今日は三連休というわけでいつも行くセイユーへ行った。するといつにないほど混んでいた。連休のせいだろう。最近どういうわけか、日本人ではないらしいアジア人を見かける。本当に日本にやってくる外国人が増加しているらしい。だが皆公衆道徳を護る日本人の姿を見てどう思っているのか気になる。携帯のニュースを見ていると、日本人の特質を褒める記事が多く見られる。だがどういうわけか、手放しで喜べない。後数年もすれば、その特質は外来から入ってくる諸々の刺激で、次第に摩滅し、日本の美質が欠けてゆくのではないか、と不安がある。どうか良き美質を末永く保持し、千年も万年も生き続けて欲しい。それにはどうすればよいのか、形のない美風や礼儀などは、冷蔵庫や真空の保存室などでは保存できないし、生かしておくのは難しい。だが諦めたくはない。さりげない親切や心遣いなどは、儚い泡のようなものだから消えてしまうかもしれない。しかし、とりあえず自分の周辺からその精神を失わない努力を広げて行くしかないのかも。
2017年03月18日 19:36 |コメント|

20170317金曜日

一昨日のことだが、エピソードとしては漫画的であまり書いて広めたくはないが滅多にないことだったので、打ち明けることにする。銭湯に行ったのだが女湯の入り口に入ろうとした時突然声を掛けてくる女性がいた。それも仰天するようなことを言った。「あなた男でしょ!女湯はあっちよ」えっと振り向いてわたしは言った。「わたしは女ですけど」よく考えると男っぽくみえる野球帽のキャップとズボンのせいだった。キャップを脱いだ。すると相手は納得して「ごめんなさい」と言ったので許してあげた。だがその後中に入って男に間違えられた話をしたら「なんだったら、おっぱいも見せましょうか?と言えばよかったのに」と言われた。しかしこういうことは初めてではない。これで二度目だ。その際にはすぐ気が付いたが、どういうわけか番台に座っていた男性が黙ってみていた。後で判ったが、驚いて黙っていたのか、それともその先の「景色」を眺めたかったのかという疑問がある。どうやら「驚いた」よりもむしろあまり見られないその「景色」を見たかったのだ、と思える。なぜなら番台から男湯女湯の脱衣場を眺められるから。しかしこういう話はもう昭和の話で昔噺の範疇に入りそう。
 
ところで最近携帯でたまたま料理のサイトを探していたら、クラシルというサイトをみつけた。そこでは初心者でもべテランでも、どんな料理も一発で学べるという便利なところで、微塵切りから、短冊切りなど、料理の基本から面倒な細かい味付けまで微に入り細に入り映像でみせてくれるので助かる。一度映像通りに作ってみたいと思わせる。中々親切で細やかなサイトだ。料理を好きな人は是非毎日利用してみると良いかも知れない。しかし映像通りに作っても絶対失敗しないとはいえない。何故ならクラシルは正確な分量は書いてあっても、個人差があるから味にばらつきがあるはず。料理はつまり感性の作業だ。勘が良い人ほど料理は旨いはず。わたしは料理好きだが、未だに「免許皆伝」に達していない。好きなだけで上達しない。理由は判っている。わたしはきっちり正確な分量を守ることを嫌うから。
 
 
 
2017年03月17日 15:37 |コメント|