高杜 一榮の世界

WELCOME TO TAKAMORI COLLECTION

高杜 一榮の世界 ≫ 高杜一榮のモノローグ

モノローグ

20170406

最近小学生時代の友達と連絡し、クラス会という会に出席することになった。これが何故か不安。というのも小学校のクラス会では、全くの新人に等しい。わたしは卒業してからクラス会に出席したことは全くなかったので、ややビビっている。というのは数十年も会っていない人々に会うことになるわけで、ざっくばらんというわけには行かない。彼らは、小学校卒業してから毎年のようにクラス会へ行っていた筈。わたしが何故不安に思っているのかといえば、わたしには彼らはいわば未知の人たちということになる。自身が何故クラス会に参加しなかったのか、には理由がある。わたしが十代の頃には家庭内には様々な出来事があった。父と兄の病気、麻布からの引越し、母の病気、父母の離婚、わたしの結婚と離婚など。それらが理由で心落ち着かない年月を過ごしていた。そんなわけでご無沙汰していた人たちに会うことになる。何故そうなったかといえば、麻布十番の商店街にクラスメートがいて、用事で毎月でかけていた頃運良く友に再会した。「クラス会に出たらいかが?」と勧められ、決意した。会わなければ何も始まらない。そんなわけで心ときめくというか心落ちつかないことになってしまった。ともあれ白髪となったわたしを誰も想像していない筈。小学生の頃に戻るには無理かも知れないが、幼い頃の写真を持って会いに行くしかない。毎年会っていた人と突然別人に会うのとの差は大きい。どんなハプニングが起こるか判らない
2017年04月06日 15:22 |コメント|

20170405木曜日

朝靴下を穿く時、靴下が五本指の場合何となく「ああ、わたしは五本指のある動物なのである」などと思わなくても良いことをふと思ってしまう。指が五本に分かれていることを改めて感じると奇妙に背中を伸ばし、これまで生きてきた人生に思いを馳せる。意味は特別にない。しかし人間として生まれているが、五本指であると思うと何故か、これで良いのか?という思いがあるらしい。人間は進化しなければならないわけではないけれど、五本の指を眺めると何故か焦りが起こる。どういうわけか、自身の身体が獣の一種であると考えると不思議と無限の世界に誘われる。哲学的でもなく、ただ不合理な生き物に生まれたという思いが底にあるのか、不明なのだが、まだ他に理由がありそうだ。そう、つまりは人間は哲学などの深い思念を思わなければ獣であるだけだ、というまるで邪険に放り出されてしまう発想が起こる。眼をつぶろう。何も見なかったことにしよう。五本指の靴下を穿かなければ苦しむことはない。
2017年04月05日 05:36 |コメント|

20170328火曜日

週刊新潮には毎週、墓碑銘という訃報を伝えるコラムがある。今回三月三十日号に『マディソン郡の橋』の作家ロバート・ジェームス・ウォーラー氏の訃報だった。『マディソン郡の橋』が世界的ベストセラーになり1200万部も売れたのは多くの人が知ることだ。映画になったこの小説は今時の若者の恋愛とは異なり、極めて静謐でなおかつ純度の高い愛のできごとを描いている。四日間の静かな密やかな関係は心に残る愛の物語であったと見え、日本でも評判だった。映画館で観た時はアメリカ映画にしては騒がしくなく、なおかつ低廉ではない澄み渡った豊かな空気を伝えていた。その作者が亡くなったと聞くと何故か、あの映画の主人公が亡くなったかのような戦きがあった。ウォーラーさんは実際には在学中に結婚し、経済学者として大学で教えていた。なおかつその趣味がギターを弾くカントリー・ウエスタンのバンドの一員であり、写真の趣味もあった。生徒には「人生においてはロマンを大切にしなさい」と教えていたという。四十代、五十代の恋愛物がそれほど多くない時代に、静かな大人の関係を描いた、のが新しい感性と受け取られたのかも知れない。おそらく一生に一度の純愛に特別な憧憬があった、と思われる。プライベートではウォーラーさんは目立つことが嫌いだったが、彼の家に仕事に来ていた造園技師と恋に落ち、離婚する羽目になった。三月十日テキサス州で七十七歳で逝去。多発性骨髄腫で闘病中であったという。彼の作品『マディソン郡の橋』はアメリカでは古典として根付く予想があるらしい。あの映画の場面を思い出しながらまた再度観たいと思っている。

 

2017年03月28日 05:38 |コメント|

20170321火曜日

最近では慣れてしまったけど、よくTシャツの前面や背中に英語で文字のついているのを着ている人を見かける。英語の文面を読むと、中には酷い文もある。ある時若い青年の背中に英語で「お前の周囲のすべての女をやれ!」というのがあった。あれは英語を良く学んでいるならすぐ解かる内容だが、おそらく着ている本人はどういう文か知らないで着ているのだ、とうかがえた。皆英語の書かれたシャツをカッコ良いと思っているが、意味が解かるとなおさらカッコ良いのに、と思える。外国では漢字の文をそのままプリントしているTシャツを着ている。結局文などは判ろうが判らなくても大して重要ではないらしい。その意味があるようで意味のない文字の列がナウイことになるらしい。不思議な雰囲気を漂わすそれがモードなのだろう。雰囲気は金で買えることになる。雰囲気という漠然とした「領域」を学問化するのも、一案。人間にはさまざまな面があるから楽しい。

ところで、最近携帯でクラシルというサイトがあり、こと細かく料理のレシピ情報を発信している。なかなか面白いのでアクセスしていたら急にインターネットにつなげられなくなった。それでドコモに行って尋ねてみたら、サイトにアクセスが多くなり、それが超過して限度を越えてしまったというのだ。そのまま続けていたら月千円アップだとか。それは困るので何か知りたい時は従来通りパソコンで見ることにした。この前はタブレットを無料で貰った。しかし次第に機械に拘束されてゆくのを感じる。何事も適当な量の好奇心が良いかもしれない。のめりこまないためには、無関心でいることが良いのだろう。
2017年03月21日 16:32 |コメント|

20170318土曜日

今日は三連休というわけでいつも行くセイユーへ行った。するといつにないほど混んでいた。連休のせいだろう。最近どういうわけか、日本人ではないらしいアジア人を見かける。本当に日本にやってくる外国人が増加しているらしい。だが皆公衆道徳を護る日本人の姿を見てどう思っているのか気になる。携帯のニュースを見ていると、日本人の特質を褒める記事が多く見られる。だがどういうわけか、手放しで喜べない。後数年もすれば、その特質は外来から入ってくる諸々の刺激で、次第に摩滅し、日本の美質が欠けてゆくのではないか、と不安がある。どうか良き美質を末永く保持し、千年も万年も生き続けて欲しい。それにはどうすればよいのか、形のない美風や礼儀などは、冷蔵庫や真空の保存室などでは保存できないし、生かしておくのは難しい。だが諦めたくはない。さりげない親切や心遣いなどは、儚い泡のようなものだから消えてしまうかもしれない。しかし、とりあえず自分の周辺からその精神を失わない努力を広げて行くしかないのかも。
2017年03月18日 19:36 |コメント|

20170317金曜日

一昨日のことだが、エピソードとしては漫画的であまり書いて広めたくはないが滅多にないことだったので、打ち明けることにする。銭湯に行ったのだが女湯の入り口に入ろうとした時突然声を掛けてくる女性がいた。それも仰天するようなことを言った。「あなた男でしょ!女湯はあっちよ」えっと振り向いてわたしは言った。「わたしは女ですけど」よく考えると男っぽくみえる野球帽のキャップとズボンのせいだった。キャップを脱いだ。すると相手は納得して「ごめんなさい」と言ったので許してあげた。だがその後中に入って男に間違えられた話をしたら「なんだったら、おっぱいも見せましょうか?と言えばよかったのに」と言われた。しかしこういうことは初めてではない。これで二度目だ。その際にはすぐ気が付いたが、どういうわけか番台に座っていた男性が黙ってみていた。後で判ったが、驚いて黙っていたのか、それともその先の「景色」を眺めたかったのかという疑問がある。どうやら「驚いた」よりもむしろあまり見られないその「景色」を見たかったのだ、と思える。なぜなら番台から男湯女湯の脱衣場を眺められるから。しかしこういう話はもう昭和の話で昔噺の範疇に入りそう。
 
ところで最近携帯でたまたま料理のサイトを探していたら、クラシルというサイトをみつけた。そこでは初心者でもべテランでも、どんな料理も一発で学べるという便利なところで、微塵切りから、短冊切りなど、料理の基本から面倒な細かい味付けまで微に入り細に入り映像でみせてくれるので助かる。一度映像通りに作ってみたいと思わせる。中々親切で細やかなサイトだ。料理を好きな人は是非毎日利用してみると良いかも知れない。しかし映像通りに作っても絶対失敗しないとはいえない。何故ならクラシルは正確な分量は書いてあっても、個人差があるから味にばらつきがあるはず。料理はつまり感性の作業だ。勘が良い人ほど料理は旨いはず。わたしは料理好きだが、未だに「免許皆伝」に達していない。好きなだけで上達しない。理由は判っている。わたしはきっちり正確な分量を守ることを嫌うから。
 
 
 
2017年03月17日 15:37 |コメント|

20170310金曜日

最近思うことは日本人の評判が極めて良い話が多いこと。震災での日本人の真面目な姿勢が世界では驚異的に感動されており、日本を誇りに思う。震災後の水の供給に先を争うこともなくきちんと列を作る人々の姿が驚嘆された。それが何か気恥ずかしくもあり、また世界には秩序と無縁の民族が大半なのか?と驚く。真摯な秩序が徹底している日本がそれほど注目されるのか?と不思議だ。何故なら争って奪い合うほど時間と金のロスで能率が悪い筈。それほど世界の中には文明が進んでいない国々が多いのか?文明の遅れた国として後から国際社会への参加を経験した日本が味わう戸惑いもある。しかし日本人が褒められ、その精神を受け継ぐまたは追随する国が出てくれることは世界にとっては大いなる発展となる筈ではないのか。現代に燻っている国際社会の諸問題解決を四苦八苦して解決するためには、広範囲の純粋なる誠意と情熱と勇気が必要かもしれない。ところで今一番注目を浴びているあの独裁国家に拉致されて帰れない人々を思うと、一刻も早く迎えに行きたい気が起きる。我ら日本にはまだ文明の遅れた国との関係を解決しなければならない義務があり、それが宿命かもしれない。この気の小さいわたしが拉致された方々をお迎えに行きたいという奇妙な義侠心が芽生えている。病気ともいえる。
2017年03月10日 11:12 |コメント|

20170308水曜日

先日某テレビ番組でフィリピンから帰還した小野田寛郎氏の日本に帰還するまでの経緯をドキュメンタリーならびに再現ドラマ風に放映していた。驚いたのはすでに日本は敗戦となり、戦争が完璧に終わっていることを小野田氏に理解させるまで二年ほどかかったこと。なおかつ彼が戦争を終わっていることを知らされてもまだフィリピンのルパング島の奥地から離れようとしなかったこと。理由は理解できるようで理解できない部分もある。少尉としての責任と自己の信念に忠実であったことがその原因だった。つまりもし現代人が「戦争終わったよ。日本に帰ろう」と勧められたとすれば「ああ、そう、じゃ日本に帰ろう」と簡単にたち上がるはずだ。ところが帰国を勧めても、彼がびくともしなかった理由は「上官が許可しなければ帰国の決意はできない」という中野学校の教えにあったため。この日本軍人の魂が現代の若者の奥底に秘められることはありえないのか、気になる。フィリピンのマルコス大統領は素晴らしい軍人精神と讃えたという。これから戦争は起こらないで欲しいが、だからとはいえ、それらの日本軍人の魂が廃れることは望ましくない。その不文律の魂の引継ぎや継続が望ましく思われる。これに反意を抱く人もいるだろう。
2017年03月08日 20:41 |コメント|

20170306月曜日

このところ多忙でなおかつハプニングが起きて携帯のメール機能が宙に飛んでしまった。慌てて復旧作業をしたが、かなり疲れた。シンドイ。だが携帯やパソコンなどの文明の利器を使うと疲れるに決まっているがこれが一度関係ができるとまるで百年も一緒にいなければならないという運命のような恐ろしいことになる。つまり便利なものほど不便というわけ。ところで今朝産経新聞を読むと櫻井よしこ氏の随筆が一面に載っていた。それによると恐ろしいことが密かに進行しているらしい。韓国では、日本叩きの病が相当酷いらしく、捏造オンパレードらしい。それも明らかに間違っていると想定される形での報道が行われている。例えばあの軍艦島は「韓国人の強制労働の地獄島だった」と書いて適当なそれらしい写真を載せているという。それが本当なら、韓国民はビョーキとしか言いようもない。何故それほど日本を眼の敵にするのか?それが孫子の代まで続いたら、良い作用をするとは思えない。その報道が負の遺産として受け止められたらどうするのだ?我々は本当ではないと証明する証拠を提出できるが、彼らがでっち上げているなら、証拠は出せない筈だ。しかし韓国のそのビョーキはおそらく国民性の問題でもあるだろう。聞いた話では大昔に日本が井戸の掘り方を指導して数百年後も経過した頃、韓国から人がまたやってきて平然と「あの井戸の掘り方もう一度教えてください」と述べ、日本人は非常に驚いたという。それほど進歩がのろすぎる。つまり匙を投げざるを得ないという。アメリカ人はある時点で匙を投げ日本に押し付けた。今後匙を投げる国があるとすれば、どこの国だろう?匙を投げられて未来に国家の姿が見えてこなければ、それは自分たちの国民性が原因だと思うしかない。櫻井氏は良く書いてくださっている。だがバッシングは過去に日本も受けたが、韓国へのバッシングは「しっかりせよと抱き起こし」の意味だと受けとめて欲しい。
2017年03月06日 20:29 |コメント|

20170302木曜日

待機児童問題で巷では大変な騒動になっているらしい。だが何故保育園に入れないと落ち零れとか社会からはみ出た風の印象を抱くのか?不思議。何故もっと大らかに自身の独自の子育てを考え、勇気を持って先進的な教育を自ら開拓しないのか?日本人は皆同じで誰か強力な旗振りがいればそちらに全部向いてしまい、無意識に追従する癖がついてしまうらしい。自身は子がないからこういうことを平気で書くと言われそうだが、これも育った環境に影響もある。父母は子を育てることには極めて斬新な考えを抱いていたようだ。何しろ成績が悪くても勉強しろとは言わず、兄三人とも自由に育った。わたしも勉強したい時はしたけれど、成績のこともそれほど気にしなかった。成績が良ければ良いという考えを持たず父母は「何でも学校卒業してからが勝負、だから自身が考えた通りに進め」と教えてくれていたようだ。そのため独特な方針、先生から成績が悪いから卒業できないぞ、と言われても平然としていた。「誰にも文句は言わせない。我が家は我が家」と割り切っていた。おそらく今話題になっている保育園に入れない、などの不安も抱かず騒がなかった筈。昭和も終わり平成になっているのに、不思議と保守的な考えになってしまうのはどういうわけか?皆もっと自由で独特な教育方針をその家その家で創るという考えはないのか?どこかの不思議な「あなたのお子さんを世界の有名校に入学させます」などの在り得ない学校の宣伝にまんまとのってしまう。詐欺と見抜けず、落とし穴にはまってしまうのだろう。今後は欲望や野望などが入り込んだ教育方針を持たないように自戒の精神をもつて人生を歩んで欲しい。子供は親のその考えを理解し尊敬する筈だ。しかしながら我が家が芸術家一家であり、その方針は職業から来ていた筈。サラリーマンや高級官僚を目指すのであればまた道は違うのだろう。理解はできるが、そのような世界に一石を投じる考えも必要ではないのか?
 
2017年03月02日 08:56 |コメント|